長恨歌         長恨歌      白居易
   漢皇重色思傾国   漢皇かんこう 色を重んじて傾国けいこくを思う
   御宇多年求不得   御宇ぎょう 多年求むれども得ず
   楊家有女初長成   楊家ようかに女むすめ有り 初めて長成ちょうせい
   養在深閨人未識   養われて深閨しんけいに在り 人ひと未だ識らず
   天性麗質難自棄   天性の麗質れいしつ 自ら棄て難く
   一朝選在君王側   一朝いっちょう選ばれて君王の側かたわらに在り
   廻眸一笑百眉生   眸を廻めぐらして一笑すれば百眉ひゃくび生じ
   六宮粉黛無顔色   六宮りくきゅうの粉黛ふんたい 顔色がんしょく無し
漢の皇帝は 絶世の美女を好み
多年にわたって 捜し求めたが得られなかった
楊家に娘がいて 年ごろになったばかり
深窓に育てられ 人に知られていなかった
天性の美貌は 埋もれてしまうはずはなく
たちまち選ばれ お側に仕える
眸を向けて一笑すれば 艶めくさまは限りなく
後宮のあまたの美女も 太刀打ちできない

 元和元年(八〇六)十二月のある日、白居易と王全素と陳鴻ちんこうの三人は、いつものように仙遊寺に出かけました。陳鴻は前年の貞元二十一年に進士に及第したばかりで、守選の期間であったでしょう。
 たまたまその年は、開元十五載(七五六)に、安禄山の乱に際して楊貴妃が殺されてから五十年目に当たっていました。悲劇の舞台である馬嵬ばかいは渭水の対岸にあり、チュウ庢県から近いのです。
 楊貴妃の悲劇は三人の恰好の話題になり、王全素が「あの悲劇を歌に作ってみてはどうか」と白居易に勧めました。それは面白そうだと話は盛り上がり、白居易は詩を、陳鴻は伝を書くことになりました。作品はほどなくできあがり、「長恨歌」は七言百三十句の大長篇に仕上がりました。
 はじめの八句は導入部で、「漢皇」は漢の皇帝ですが、時代を秦や漢に取るのは唐代の詩文の慣行ですので、この話が唐の玄宗皇帝と楊貴妃の物語であることは、誰にでもわかることです。
 楊貴妃が玄宗の愛妃になる部分は「一朝選ばれて君王の側に在り」と簡単に片づけてありますが、これは白居易があくまで貴人の愛の物語として描こうとしているからであって、事実を書くのを避けたのではありません。
 その証拠には同時に書かれた陳鴻の「長恨歌伝」では史実のままに書かれていて、書いても問題にならなかったことがわかるからです。

   春寒賜浴華清池   春寒くして浴を賜たまう 華清の池
   温泉水滑洗凝脂   温泉おんせん 水滑らかにして凝脂ぎょうしを洗う
   侍児扶起嬌無力   侍児じじたすけ起こせば 嬌きょうとして力無し
   始是新承恩沢時   始めて是れ新たに恩沢おんたくを承くる時
   雲鬢花顔金歩揺   雲鬢うんびん 花顔かがん 金歩揺きんぽよう
   芙蓉帳暖度春宵   芙蓉ふようの帳とばり暖かにして春宵を度わた
   春宵苦短日高起   春宵しゅんしょう短きに苦しみ 日高くして起き
   従此君王不早朝   此れより君王くんおう早朝そうちょうせず
春まだ浅い華清の宮に 浴殿が設けられ
温泉の水は清らかで 凝脂を洗う
侍女が手を貸すと 優雅にしなだれかかり
この日はじめて 天子のお情けをいただいた
高く結いあげた髷 花の顔かんばせ 黄金の髪飾り
蓮の刺繍の帳は暖かく 春の一夜は過ぎる
春の夜はあまりに短く 日が高く昇って起きいで
この日から皇帝は 朝のまつりごとを廃された

 楊貴妃が玄宗の「恩沢を承くる」(結ばれる)華清宮の場面です。
 楊貴妃の入浴の描写などは、いまでは何でもないことのようですが、当時の詩では、それまでに見られなかった斬新かつ大胆な表現でした。
 これは当時流行しはじめていた伝奇でんきと䡄を一にするもので、時代の最先端をゆく名句として人口に膾炙することになります。

   承歓待宴無閑暇   歓かんを承け宴えんに待して閑暇かんか無く
   春従春遊夜専夜   春は春の遊びに従い 夜は夜を専もっぱらにす
   後宮佳麗三千人   後宮こうきゅうの佳麗かれい三千人
   三千寵愛在一身   三千の寵愛ちょうあい一身に在り
   金屋粧成嬌侍夜   金屋 粧よそおい成って嬌きょうとして夜に侍し
   玉楼宴罷酔和春   玉楼 宴えんんで酔うて春に和す
   姉妹弟兄皆列土   姉妹弟兄 皆みなを列つら
   可憐光彩生門戸   憐れむべし 光彩こうさい門戸もんこに生ずるを
寵愛は限りなく 宴遊に侍して片時もはなれず
春は春の遊び 夜は夜ごとに歓びを共にする
後宮の美女は三千人
三千の寵愛を一身に集める
金殿で化粧をほどこし 艶やかに閨室にはべり
玉楼で宴が終わると 酔って春にとけこむ
姉妹兄弟は 残らず王侯の位につき
一門の栄光は 人も羨むばかりである

 連日連夜の愛の饗宴のもようです。
 楊家の美女は天子の寵愛を一身に集め、「姉妹弟兄」しまいていけいはみな列侯れっこうの位を授かり、一門の栄華は人も羨むほどでした。

   遂令天下父母心  遂に天下の父母の心をして
   不重生男重生女  男を生むを重んぜず 女を生むを重んぜしむ
   驪宮高処入青雲  驪宮りきゅう高き処 青雲せいうんに入り
   仙楽風飄処処聞  仙楽せんがく風に飄ひるがえりて処処しょしょに聞こゆ
   緩歌慢舞凝糸竹  緩歌かんか 慢舞まんぶ 糸竹しちくを凝らし
   尽日君王看不足  尽日じんじつ 君王くんおうれども足らず
   漁陽鼙鼓動地来  漁陽ぎょようの鼙鼓へいこ 地を動かして来たり
   驚破霓裳羽衣曲  驚破きょうはす 霓裳羽衣げいしょうういの曲
天下の親たちは男が生まれても喜ばず
ひたすらに女の子が生まれるのを望む
驪山の離宮は 雲にそびえて高く
仙界の音楽は 風に乗ってあたりに響く
緩やかな歌 のびやかな舞 笛や琴の曲はこまやかで
天子は一日眺めても 飽きることはない
時に地を揺るがせて 漁陽の兵鼓が押し寄せ
あっというまに 霓裳羽衣の曲を打ち砕く

 遂に世間では男を生むよりも女を生む方がいいと思うまでになり、驪山の華清宮は仙人の住む天国と見まがうばかりの華やかさになります。
 そこに「漁陽の鼙鼓 地を動かして来たり」、驪山の饗宴は一瞬にして終わりを告げます。
 史上有名な安禄山の挙兵は、范陽はんよう(北京市)で起きたと書くのが正しいのですが、詩では「漁陽の鼙鼓」と范陽の東の漁陽に変えてあります。
 これは当時、「漁陽慘撾」ぎょうさんたという有名な曲があり、勇壮なその曲と優雅な「霓裳羽衣の曲」とを対比して用いた技巧と解されています。

   九重城闕煙塵生   九重きゅうちょうの城闕じょうけつ 煙塵えんじん生じ
   千乗万騎西南行   千乗せんじょう万騎ばんき 西南に行く
   翠華揺揺行復止   翠華すいか揺揺ようようとして行きて復た止まり
   西出都門百余里   西のかた都門ともんを出ずること百余里
   六軍不発無奈何   六軍りくぐん発せず 奈何いかんともする無く
   宛転蛾眉馬前死   宛転えんてんたる蛾眉がび 馬前ばぜんに死す
九重の宮城に 土埃は立ちのぼり
千乗の天子は 万騎をひきつれて西南に逃れる
錦の御旗は揺れ動き 進んではまた止まり
西のかた都の門を出て百里の余
近衛の兵は動こうとせず どうにもならない
見目麗しい蛾眉は 馬前において死す

 「長恨歌」では安禄山の乱がなぜ起きたかなど、歴史にかかわるようなことは一切書かれていません。
 乱の発生から玄宗の都落ちまでには七か月たっているのですが、詩では安禄山が挙兵するや天子はすぐに西南に逃れたように書かれています。
 これは物語を劇的に展開するためでしょう。
 そして馬嵬における楊貴妃の死も「宛転たる蛾眉 馬前に死す」と一句で片づけてあります。ここでは大きなドラマがあるのですが、楊貴妃の死の理由としてあげてあるのは、「六軍発せず 奈何ともする無く」と、護衛の禁軍の兵が動こうとしなかったことだけを書いています。
 天子もどうすることもできなかったと、不可抗力を言うだけです。

   花鈿委地無人収   花鈿かでん 地に委てられて人の収おさむる無し
   翠翹金雀玉掻頭   翠翹すいぎょう 金雀きんじゃく 玉掻頭ぎょくそうとう
   君王掩面救不得   君王 面おもてを掩おおいて救い得ず
   回看血涙相和流   回かえり看れば 血涙けつるいあい和して流る
   黄埃散漫風蕭索   黄埃こうあい散漫さんまん 風蕭索かぜしょうさく
   雲桟縈紆登剣閣   雲桟うんさん縈紆えいう 剣閣けんかくに登る
螺田の簪 翡翠の羽根 金の孔雀の髪かざり
玉の笄 ことごとく地に落ちて拾う者なし
天子は顔を覆って救うことができず
かえり見しつつ 血と涙は共に流れる
黄塵は舞いあがり 風はわびしく吹きつのり
桟道は曲がりくねって 剣閣の山を越える

 白居易は史実を生々しく描くことはしません。
 当時の人々がよく知っていることを、わざわざ書く必要はなかったのです。
 ところが、楊貴妃が身につけていた装身具だけは、余韻を残すようにあでやかに描き出されます。
 高価な装身具が、拾う者もなく地に散らばっているのです。
 描かれるのは寵妃を失った玄宗の悲しみだけです。蜀の険しい桟道も剣閣の山も、玄宗の悲嘆の比喩として象徴的に描かれるのです。

峨眉山下少人行  峨眉がび山下さんか 人の行くこと少まれ
旌旗無光日色薄  旌旗せいき光無く 日色にっしょく薄し
蜀江水碧蜀山青  蜀江しょくこう水は碧みどりにして 蜀山は青く
聖主朝朝暮暮情  聖主せいしゅ 朝朝暮暮ちょうちょうぼぼの情
行宮見月傷心色  行宮あんぐうに月を見れば 傷心の色
夜雨聞鈴腸断声  夜雨やうに鈴すずを聞けば 腸断の声
峨眉山の麓には 道ゆく人もすくなく
天子の旗は色あせ 日の光も陰っている
蜀江の水は深緑 蜀の山は青いが
明けても暮れても 天子は物思いに沈む
行宮の月を眺めては 悲しみの色につつまれ
雨の夜に鈴の音を聞いては 断腸の声と聞く

 玄宗の成都滞在中、関中では太子が独断で即位して粛宗となり、安禄山軍に占領されていた長安を奪回しようと兵を進めます。
 上皇になった玄宗も、ただただ悲嘆に明け暮れしていただけではありませんが、詩ではそうしたことは一切無視されます。「聖主 朝朝暮暮の情」と天子の悲しみのさまだけに多くの詩句が費やされるのです。

   天施日転廻龍馭   天施めぐり日転じて 龍馭りゅうぎょを廻めぐらし
   到此躊躇不能去   此ここに到りて躊躇して去る能あたわず
   馬嵬坡下泥土中   馬嵬坡下ばかいはか 泥土でいどの中うち
   不見玉顔空死処   玉顔ぎょくがんを見ず 空しく死せし処
   君臣相顧尽霑衣   君臣相顧みて尽ことごとく衣ころもを霑うるお
   東望都門信馬帰   東のかた都門ともんを望み馬に信まかせて帰る
天はめぐり日は移り 都へもどることになり
かつての地に到るや 立ち止まって立ち去れない
馬嵬坡の下 泥土に中に
死処は空しく 玉の顔かんばせを目にはできない
君臣は顔を見合わせ 涙は袖をぬらし
東のかた都の門へと 馬にまかせて帰ってゆく

 皇帝が蜀の行宮から都長安へもどってゆくところからはじまります。その間に起こった歴史上の変化については、「天施り日転じて」と書くだけで、一言も触れるところはありません。この詩は叙事詩ではなく抒情詩なのです。
 帰途、「馬嵬」の悲劇の場所を通りますが、「君臣相顧みて尽く衣を霑し」と涙を流すだけです。
 そしてとぼとぼと、馬のゆくのに任せて都に帰ってゆきます。

帰来池苑皆依旧  帰り来たれば 池苑ちえんみな旧に依
太液芙蓉未央柳  太液たいえきの芙蓉 未央みおうの柳
芙蓉如面柳如眉  芙蓉は面おもての如く 柳は眉の如し
対此如何不涙垂  此これに対して如何いかんぞ涙の垂れざらん
春風桃李花開日  春風桃李とうり 花開く日
秋雨梧桐葉落時  秋雨梧桐ごとう 葉落つる時
西宮南内多秋草  西宮せいきゅう南内なんだい 秋草しゅうそう多く
落葉満階紅不掃  落葉階きざはしに満ちて紅くれないはらわず
梨園弟子白髪新  梨園りえんの弟子 白髪新たに
椒房阿監青蛾老  椒房しょうぼうの阿監あかん 青蛾せいが老いたり
帰れば池も庭園も 未央宮の柳の木
太液の池の蓮も 昔のままに残っている
蓮の花に面影をしのび 柳の葉に蛾眉を思う
想い出を前に どうして涙を流さずにいられよう
春の風に 桃や李すももが花咲く日も
秋の雨に 桐の葉が落ちる日も  涙はつきない
西の宮殿も南内も 秋草の茂るにまかせ
落ち葉は階を埋めるが 紅葉を掃くこともない
梨園の弟子たちも 白髪が目立ち
椒房の阿監の若々しい眉も老けてしまった

 玄宗皇帝が蜀に滞在していたのは一年半ほどで、粛宗の至徳二載(七五七)十二月三日に長安にもどっています。都に帰っては来ましたが、思い出すのは楊貴妃と過ごした楽しい日々のことだけだと白居易は書きます。
 春と秋、花と落葉、青蛾と白髪、いくつもの対句を駆使して、夢のようなかつての日々が再びもどっては来ないと、綿々の情を詠うのです。
 しかし、現実には政事的復活の動きもあったようです。
 「西宮南内」は実際にあった宮殿で、南内は興慶宮、西宮は太極宮の一番奥まった一角をいいます。玄宗は上皇になって都に帰り、はじめのうちは旧居の興慶宮に住まわせられますが、旧臣が上皇のまわりに集まるのを嫌った粛宗が玄宗を西宮に移し、旧臣が近寄れないようにしたといいます。

   夕殿蛍飛思悄然   夕殿せきでん蛍飛んで 思い悄然しょうぜんたり
   孤燈挑尽未成眠   孤燈ことうかかげ尽くして未だ眠りを成さず
   遅遅鐘鼓初長夜   遅遅ちちたる鐘鼓 初めて長き夜よる
   耿耿星河欲曙天   耿耿こうこうたる星河 曙けんと欲する天
   鴛鴦瓦冷霜華重   鴛鴦の瓦かわら 冷ややかにして霜華そうか重く
   翡翠衾寒誰与共   翡翠の衾しとね 寒くして誰と共にせん
   悠悠生死別経年   悠悠たる生死 別れて年を経たり
   魂魄不曾来入夢   魂魄こんぱくかつて来たりて夢に入らず
夜の宮殿に蛍が飛び うなだれて思いにふける
独り灯火を掻き立て 寝つくことができない
鐘鼓の音も間遠になって 秋は夜長となり
ようやく明けそめた空に 天の河が白々と流れる
鴛鴦の瓦は 霜に打たれて重く冷たく
翡翠の衾は 共にする者もなくひとしお寒い
悲しみの生と死は 別れて年月を経たのに
死者の魂は いまだ夢に現われない

 ひとり寝の玄宗の淋しい生活のさまです。玄宗は晩年、西宮で幽閉同様の侘びしい生活を送ったと言われますが、ここで「魂魄 曾て来たりて夢に入らず」と後半へつながる一句が挿入されます。

   臨邛道士鴻都客  臨邛りんきょうの道士 鴻都こうとの客
   能以精誠致魂魄  能く精誠せいせいを以て魂魄こんぱくを致いた
   為感君王輾転思  君王くんおう輾転てんてんの思いに感ずるが為に
   遂教方士殷勤覓  遂に方士ほうしをして殷勤いんぎんに覓もとめしむ
   排空馭気奔如電  空くうを排し気を馭ぎょし 奔はしること電の如く
   昇天入地求之遍  天に昇のぼり地に入って之を求むること遍あまね
   上窮碧落下黄泉  上かみは碧落へきらくを窮きわめ 下は黄泉こうせん
   両処茫茫皆不見  両処りょうしょ茫茫ぼうぼうとして皆みな見えず
臨邛の道士楊通幽が 長安にやってきて
念力によって 死者の魂を呼び寄せるという
天子が夜も眠れないほど恋い慕っていると聞き
ついに召し出されて 丁寧な言葉を賜わる
道士は空をひらき大気に乗って 稲妻のように走り
天に昇り地に分け入って あまねく捜しまわる
上は天の果て 下は地の底まで窮めたが
どちらも 茫々として見分けがつかない

 「長恨歌」はここから「伝奇」的創作の部分にはいります。
 白居易の物語作者としての手腕が発揮される部分です。
 まずはじめの八句では、臨邛(四川省邛峡県)の道士で楊通幽ようつうゆうという者が都にやってきます。この道士は、名前からして楊(貴妃)と通幽できる者という暗号を帯びています。
 この道士が念力によって死者の魂を招き寄せることができるというので、玄宗に召されて楊貴妃の魂の行方を探すことになります。
 そこで道士は、天地を隈なく探しまわりますが、貴妃の魂の在り処を探し出すことはできません。
 困難を強調して、読者を物語の世界に引き込む手法です。

   忽聞海上有仙山  忽ち聞く 海上に仙山せんざん有り
   山在虚無縹緲間  山は虚無きょむ縹緲ひょうびょうの間かんに在りと
   楼閣玲瓏五雲起  楼閣ろうかく玲瓏れいろうとして五雲ごうん起こり
   其中綽約多仙子  其の中うち 綽約しゃくやくとして仙子せんし多し
   中有一人字太真  中に一人いちにん有り 字あざなは太真たいしん
   雪膚花貌参差是  雪膚せっぷ花貌かぼう 参差しんしとして是れならん
   金闕西廂叩玉扃  金闕きんけつの西廂せいしょうに玉扃ぎょくけいを叩き
   転教小玉報双成  転じて小玉しょうぎょくをして双成そうせいに報ぜしむ
ふと耳にした話とは「海上に仙人の棲む島があり
そこは縹緲として 定かには見えぬ彼方である
楼閣は触れ合う玉のように清らかで 五色の雲が湧き
なかには 淑やかな仙女がたくさん住んでいる
そのひとりは 字を太真といい
雪の肌 花の顔かんばせ そのお方こそお捜しの人ではないか」
黄金の楼門をくぐり 西の廂房の門扉をたたき
小娘の小玉を通じて 侍女の双成に伝えさせる

 ところが楊通幽はふと、海上に仙山があって多くの仙人が住んでおり、そのなかに字あざなを太真という仙女がいることを耳にします。詩では省略されていますが、玄宗は息子の愛妃であった楊玉環ようぎょくかんを自分のものにするため、一時、女道士にして「太真」と名付けていた時期がありました。
 白居易は史実をうまく利用して、仙女が楊貴妃であることを示しているのです。そこで楊通幽は、海上の仙山を訪ねて、小玉という小間使いを通じて侍女の双成に来意を告げます。
 このあたりから詩は急に小説的に具体的になります。

   聞道漢家天子使  聞道きくならく 漢家かんかの天子の使いなりと
   九華帳裏夢魂驚  九華きゅうかの帳裏ちょうり 夢魂むこん驚く
   攬衣推枕起徘徊  衣を攬り枕を推し起ちて徘徊はいかい
   珠箔銀屏邐迤開  珠箔しゅはく銀屏ぎんぺい 邐迤りいとして開く
   雲鬢半偏新睡覚  雲鬢(うんぴん)半ば(かたよ)りて新たに(ねむ)りより覚め
   花冠不整下堂来  花冠かかん整えず堂を下くだりて来たる
   風吹仙袂飄颻挙  風は仙袂せんぺいを吹いて飄颻ひょうようとして挙がり
   猶似霓裳羽衣舞  猶お霓裳羽衣げいしょうういの舞に似たり
   玉容寂寞涙闌干  玉容ぎょくよう寂寞せきばくとして 涙 闌干らんかん
   梨花一枝春帯雨  梨花りか一枝いっし 春 雨を帯ぶ
「漢の天子からのお使いです」と言うのを聞いて
九華の帳のなかで うたた寝の仙女は驚く
衣装をつけ枕を押しのけ 右往左往する
真珠の簾を巻き上げて 銀の鈎にかけ
眠りから覚めたばかり 結いあげた髷は傾き
花の冠もみだれたまま 堂を下りてきた
仙女の袂たもとは 風に吹かれて舞い上がり
霓裳雨衣の舞に似ている
玉の容姿はさびしげで しとどに涙は溢れ出で
春雨に濡れた一枝の梨の花のようだ
 漢の天子の使者がやってきたという報せを聞くと、牀上に横になっていた仙女はあわてて起き上がり、花冠もととのえずに戸口に出てきます。
 前半では影のような存在としてしか描かれていなかった楊貴妃は、ここにきてはじめて生きた女性として描かれます。楊太真は「雲鬢半ば偏りて新たに睡りより覚め 花冠整えず堂を下りて来たる」のです。あわてふためいて下りてくる仙女の姿は「猶お霓裳羽衣の舞に似たり」でした。
 仙女は涙を流しながら楊通幽の前に現われます。

   含情凝睇謝君王   情を含み睇ひとみを凝らして君王くんおうに謝す
   一別音容両渺茫   一別音容 両ふたつながら渺茫びょうぼう
   昭陽殿裏恩愛絶   昭陽殿裏 恩愛絶
   蓬莱宮中日月長   蓬莱宮中 日月じつげつ長し
   回頭下望人寰処   頭こうべを回めぐらして 下しも人寰じんかんを望む処
   不見長安見塵霧   長安を見ずして塵霧じんむを見る

情をこめた眸でみつめ 天子への謝礼を述べる
「一別以来 陛下のお声もお姿も遠く遥かになりました
昭陽殿での情愛 いまは絶え
蓬莱宮の歳月は あまりに長くなりました
頭をめぐらして 下のかた人の世を眺めても
長安は見えず 塵と霧がみえるだけ

 仙女が道士に向かって語る詩中で最重要の場面です。
 仙女太真は天子が使者を差し向けてくれたことに感謝しますが、いまは住む世界が異なり、歳月が過ぎ去ってしまったことを嘆きます。

   唯将旧物表深情  唯だ旧物を将って深情しんじょうを表し
   鈿合金釵寄将去  鈿合でんごう金釵きんさ 寄せ将ち去らしむ
   釵留一股合一扇  釵は一股いっこを留め 合ごうは一扇いっせん
   釵擘黄金合分鈿  釵は黄金を擘き 合は鈿でんを分かつ
   但教心似金鈿堅  但だ心をして金鈿きんでんの堅きに似しむれば
   天上人間会相見  天上人間じんかんかならず相あいまみえん
せめては昔の物で想いの深さを示そうと
螺鈿の香盒と金の釵をお届けします
釵は片側をとどめ 香盒は一方を残し
釵は黄金を裂き 香盒は蓋と身を分ける
黄金や螺鈿のように心さえ堅ければ
天と地に分かれていても いつかはきっと会えるでしょう」

 仙女はつづけて、もはや現世にもどることはできませんが、せめては昔の想い出の品を贈って思いの深さを表わしましょうと、釵かんざしと香盒こうごうをそれぞれ二つに分け、片方ずつを贈ろうと言います。証拠の品「鈿合金釵」は細部に到るまで詳細に描かれており、馬嵬で地に落ちたまま捨て置かれた装身具が、ここで生きてくるのです。伏線が見事に生かされます。

   臨別殷勤重寄詞  別れに臨んで殷勤いんぎんに重ねて詞ことばを寄す
   詞中有誓両心知  詞中しちゅうに誓い有り 両心りょうしんのみ知る
   七月七日長生殿  七月七日 長生殿ちょうせいでん
   夜半無人私語時  夜半やはん人無く 私語しごの時
   在天願作比翼鳥  天に在りては願わくは比翼ひよくの鳥と作
   在地願為連理枝  地に在りては願わくは連理れんりの枝と為らん
   天長地久有時尽  天長く地久ひさしきも 時とき有りて尽
   此恨綿綿無尽期  此の恨みは綿綿(めんめん)として尽くる(とき)無からん
別れに際して さらにねんごろに伝言があった
その言葉は 二人だけが知っている誓いである
「七月七日の長生殿
人々が寝静まる夜半の時 言い交わしたささめごと
天に在っては比翼の鳥となろう
地に在っては連理の枝となろう
天は長く地は久しいといっても いつかは果てるでしょう
だが 離別の恨みだけは綿々として尽きる時はありません」

 仙女太真は最後に、玄宗と二人だけが知っている言葉を告げます。
 それは七月七日、長生殿での誓いでした。
 「天に在りては願わくは比翼の鳥と作り 地に在りては願わくは連理の枝と為らん」という有名な二句です。そして天と地はいつか果てるときがあっても、この離別の恨みだけは尽きることがありませんと結びます。
 ここにいたって「長恨歌」は男女の愛の永遠を詠う愛の讃歌になるのです。

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