官舎小亭閒望    官舎小亭の閒望 白居易
風竹散清韻     風竹ふうちく 清韻せいいんを散じ
煙槐凝緑姿     煙槐えんかい 緑姿りょくしを凝らす
日高人吏去     日高くして人吏じんり去り
閒坐在茅茨     閒坐かんざして茅茨ぼうしに在り
葛衣禦時暑     葛衣かつい 時暑じしょを禦ふせ
蔬飯療朝飢     蔬飯そはん 朝飢ちょうきを療いや
持此聊自足     此れを持して聊いささか自ら足り
心力少営為     心力しんりょく 営為えいい少なし
風に吹かれて 竹は清らかな音を立て
靄につつまれ 槐の緑が浮かんでいる
日は高く昇って下役は去り
私はのんびりと茅葺きの家に坐す
葛の着物で 暑さをしのぎ
粗末な飯で 朝の空腹をいやす
そんな生活に まずは満足し
心と体を労することもない

 憲宗即位の翌年が元和元年(七〇六)です。
 白居易は元和のはじめに校書郎を辞したと言っていますので、このころまで秘書省に籍だけは残していたようです。
 この年の制挙は四月に新しい皇帝の名において施行され、白居易も元愼も才識兼茂明於体用科を受験しました。
 論文の課題は安史の乱の結果起こった諸問題の対策を問うものでした。二人とも及第し、元稹は三等、白居易は四等でした。
 制挙は一二等を置かない習慣でしたので、元稹は首席で合格したことになります。制挙は形式上は天子が直接人材を選考するもので、新天子の初回の制挙は新時代を担う官吏が選ばれるという受け止め方があります。だから、その合格者は特に名誉とされるのです。
 首席及第の元稹はいきなり門下省の左拾遺(従八品上)に任ぜられました。左拾遺は文士の清官と称され、将来の出世が約束されたようなものです。白居易はチュウ庢県(陝西省周庢県)の県尉を授けられました。この県は長安の西六五㌔㍍ほどのところにあり、畿県に属します。
 畿県は畿内の県として格の高い県に位置づけられ、品階も校書郎よりは一品階上の従八品下です。畿県の県尉は悪いポストではありませんが、自分よりも若い元稹が左拾遺になったのに比べると大きな差があり、白居易には失望の気持ちがあったでしょう。
 三十四歳にもなって制挙を受け、新天子のもとで大いに才能を発揮したいと思っていた白居易は、いささかあてが外れてしまった感じで、詩には仕事がなくて退屈し切っている姿が読み取れます。

亭上独吟罷     亭上 独吟どくぎん
眼前無事時     眼前 無事の時
数峰太白雪     数峰 太白たいはくの雪
一巻陶潜詩     一巻 陶潜とうせんの詩
人心各自是     人心 各々おのおのみずから是とす
我是良在茲     我が是 良まことに茲ここに在り
廻謝争名客     廻かえって謝す 名を争う客
甘従君所嗤     甘んじて君の嗤わらう所に従まか
亭上で ひとり詩を吟ずれば
あとは何も することがない
太白山の峰に白い雪
手には一巻 陶淵明の詩
人にはそれぞれ 正しいとする心があり
私の正しさは ここに在る
振り返って 名声を争う者に言っておく
甘んじて 君が笑うのにおまかせすると

 詩の後半では太白山の雪を眺め、陶淵明とうえんめいの詩集を手にして「人心 各々自ら是とす」と自分で自分を慰めています。
 結びを見ると、白居易の地位が期待通りでなかったことを誰かが笑っており、そのことを伝えた友人に答えた詩のようです。
 左拾遺になった元稹は、左拾遺として提出した上書が物議をかもし、その年のうちに河南県(河南省洛陽市)の県尉に出され、白居易と同じ身分になっていました。
 順宗の急進的な改革に反対する宦官たちによって擁立された憲宗ですが、徳宗以来の弊政を改めようという気持ちは順宗と同じでした。
 ただし、その進め方は徳宗や順宗の失敗に学んで、極めて慎重でした。禁軍を握っていた宦官の兵権には手をつけず、反抗藩鎮のなかで弱いところから各個撃破してゆくという方策をすすめました。
 この方策は着々と成果を収め、やがて「元和の中興」といわれる時代が出現します。

目次三へ