酬哥舒大見贈     哥舒大が贈られしに酬ゆ 白居易
去歳歓遊何処去   去歳(きょさい)歓遊 (かんゆう)して 何れの処にか去る
曲江西岸杏園東   曲江きょくこうの西岸 杏園きょうえんの東
花下忘帰因美景   花下かか帰るを忘るるは 美景びけいに因り
樽前勧酒是春風   樽前そんぜん酒を勧むるは 是れ春風しゅんぷう
各従微官風塵裏   各々おのおの微官に従う 風塵の裏うち
共度流年離別中   共に流年りゅうねんを度わたる 離別の中うち
今日相逢愁又喜   今日こんにち相逢あいあい 愁えて又喜ぶ
八人分散両人同   八人分散して 両人同じくするを
去年 勧びを共にして遊びに行ったのは
曲江の西 杏園の東
花の下で 美しい景色に帰るのを忘れ
酒樽の前で 春風が酒を勧める
それぞれ微官に任ぜられ 俗事にまみれて
別れたままで 月日は流れた
今日君と逢い 愁いもあれば喜びもある
八人は分かれ分かれだが 二人は一緒にいるのだから

 去年、同年(同期という意味)で任官した哥舒煩かじょはんと逢い、哥舒煩から詩が贈らました。詩題にある「大」は排行一という意味です。
 掲げた詩は、それに答えた白居易の詩になります。哥舒煩は秘書省の同僚には入っていませんので、他の部署に配属されたのでしょう。
 詩によると昨年の及第者は一年のあいだに異動してわかれわかれになり、貞元二十年に長安に残っていたのは二人だけになっていたようです。
 元愼も洛陽に転勤していました。
 これは当時の慣行で、新しく任官した者はしばらく中央の部署で見習いをしたあと、地方に出て行政の実務を学ぶことになっていました。
 昨年の楽観的な詩に比べると、ややもの淋しい作品になっていますが、白居易には何の屈托もないように感じられます。


西明寺牡丹花時憶元九 西明寺の牡丹の花時に元九を憶う
                                     白居易
   前年題名処     前年 名を題する処ところ
   今日看花来     今日 花を看に来たる
   一作芸香吏     一たび芸香うんこうの吏と作りてより
   三見牡丹開     三たび牡丹の開くを見る
   豈独花堪惜     豈あに独り花の惜しむに堪うるのみならんや
   方知老暗催     方まさに知る 老いの暗あんに催すを
   何况尋花伴     何ぞ况いわんや 花を尋ねるの伴とも
   東都去未廻     東都とうとに去って未だ廻かえらず
   詎知紅芳側     詎なんぞ知らん 紅芳こうほうの側かたわら
   春尽思悠哉     春尽きて思い悠ゆうなる哉かな
先年 名を記したこの寺に
今日は牡丹の花を見にやってきた
ひとたび 校書の郎となってから
牡丹の花の咲くのを 三度見る
花が散るのを惜しむだけではなく
老いがひそかに 忍び寄るのを惜しむのだ
まして 花見を共にした友は
洛陽に去ってまだ帰ってこない
知っているのか この赤い花のかたわらで
過ぎてゆく春を 悲しむ私がいることを

 徳宗は初政において、政府に従わない藩鎮を制圧しようとしましたが失敗してしまいました。そのとき徳宗を救ったのが宦官のひきる神策軍でしたので、神策軍を強化してその力に頼るようになりました。
 徳宗の末年には反政府の藩鎮と宦官の率いる禁軍の存在とが大きな政事問題になっていました。徳宗の太子李誦りしょうは父帝が挫折した政治改革に意欲を燃やし、かねてから同志を集めて態勢をととのえていました。
 ところが李誦は貞元二十年に風疾(中風)の発作に襲われ、口が利けない状態におちいります。それでも貞元二十一年(八〇五)正月二十三日に徳宗が崩じると、李誦は即位して順宗となり、ただちに政治改革に着手します。
 白居易が延康坊の西明寺に牡丹の花を見に行ったのは、この年の二月のことでしょう。詩中に「三たび牡丹の開くを見る」とありますので、流入(官吏になること)して三度目の牡丹の季節を迎えたときの詩であるからです。
 白居易はまだ三十四歳というのに、老いが忍び寄ってくるのを嘆き、そのころ洛陽に転勤になっていた元愼を懐かしがっています。

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