常楽里閑居 偶題十六韻 兼寄劉十五公輿 王十一起 呂二炅
 呂四頴 崔十八玄亮 元九稹 劉三十二敦質 張十五仲元 時為校書郎
 常楽里の閑居 偶十六韻を題し 兼ねて劉十五公輿 王十一起 呂二炅 呂四頴
 崔十八玄亮 元九稹 劉三十二敦質 張十五仲元に寄す 時に校書郎為り  白居易

 

   帝都名利場     帝都は名利みょうりの場じょう
   鶏鳴無安居     鶏にわとり鳴けば安居あんきょする無し
   独有懶慢者     独り懶慢らんまんの者有り
   日高頭未梳     日高くして頭かしら未だ梳くしけずらず
   工拙性不同     工拙こうせつせい同じからず
   進退迹遂殊     進退しんたいあと遂に殊ことなり
   幸逢太平代     幸いに太平の代に逢い
   天子好文儒     天子 文儒ぶんじゅを好む
   小才難大用     小才 大いには用い難く
   典校在秘書     典校てんこうして秘書に在り
帝都長安は 名誉と利益の存するところ
鶏が鳴けば のんびりしている者はない
ひとりだけ なまけ者がいて
日が高く昇っても 髪をくしけずらない
物事の巧拙は 人によって違うが
この者の進退だけは 特別だ
だが幸せにも 太平の世に出逢い
天子は文学や儒学を好まれる
才能もないので重要な仕事はまかせられず
書籍の校訂係として秘書省にいる

 銓試のうち博学宏詞科は詩作の能力に重きを置き、試判抜萃科は論文に重きを置きます。詩作に自信のあった白居易が試判抜萃科を選んだ理由については、祖父の名が白鎬はくこうで博学宏詞科の「宏」と同音のため、それを避けたと言われています。
 当時、名に対する禁忌は相当のもので、白居易は用心深く振舞ったのです。元愼も試判抜萃科を受験し、合否の判定は翌貞元十九年(八〇三)の春に発表されました。合格者八人のうちに二人の名前もあり、合格の順位は試判抜萃科中、白居易は一位、元愼は五位でした。
 合格者一同は、曲江の西にある杏園きょうえんで天子から饗宴を賜わり、そのあと西明寺さいみょうじに行って能筆の者が合格者全員の姓名を壁に書きつけます。西明寺は西市の東南角に隣接する延康坊にありましたので、杏園からずいぶん離れていますが、牡丹の名所として有名でした。
 こうした華やかな行事のあと、各人の配置が決まります。
 白居易と元愼は共に秘書省著作局の校書郎(正九品上)に任ぜられ、しばらく勤務を共にします。
 白居易は任官すると、常楽坊にあったもと宰相の関播かんはんの私邸の一隅を借りて住居とし、そこから秘書省に通勤しました。
 詩は勤めはじめてから間もなくのもので、長い詩です。
 白居易が詩を寄せている劉公輿りゅうこうよ、王起、呂炅りょけい、呂頴りょえい、崔玄亮さいげんりょう、元愼、劉敦質りゅうとんしつ、張仲元ちょうちゅうげんの八人は秘書省の同僚と思われます。そのうち王起、呂炅、崔玄亮、元愼の四人は白居易と同年の銓試合格者ですので、校書郎は新人役人の見習い職場であったことがわかります。常楽里(坊に同じ)は東市の東に隣接し、東壁正門の春明門に近いところにあります。
 しかし、白居易のころには東市の跡はほとんどが住宅地になっており、市場の機能は西市に集約されていました。
 消費都市としての長安は衰退しており、常楽坊のあたりも城壁に沿った寂れた街になっていたようです。

三旬両入省     三旬さんじゅんに両はつか入省し
因得養頑疎     因りて頑疎がんそを養うを得たり
茅屋四五間     茅屋ぼうおく四五間
一馬二僕夫     一馬いちばと二僕夫
俸銭万六千     俸銭ほうせんは万六千
月給亦有余     月に給して亦た余り有り
既無衣食牽     既に衣食の牽けん無く
亦少人事拘     亦た人事に拘かかわり少なし
遂使少年心     遂に少年の心をして
日日常晏如     日日にちにち常に晏如あんじょたら使
ひと月に二十日出勤し
愚か者でも食べてゆける
あばら屋に間口四五間の部屋
一頭の馬と二人の召し使い
俸給は一万六千銭だが
月々の費用をみたして余りがある
衣食の心配がない上に
人づき合いのわずらわしさも少ない
そんなわけで 若者の心は
安らかで落ちついている

 「三旬に両か入省し」については、ひと月に二日出勤という説もありますが、それではあまりにも少ないので、「両」を両旬の略と考えて二十日出勤としました。
 白居易が借りた部屋は間口四五間ほどのものでした。
 白居易は「茅屋四五間」とか「俸銭は万六千」とか具体的な数字をあげて、任官した当座の生活の模様をやや諧謔味をこめて描いています。
 詩に数字をあげて俗事を持ち込むのは、儒学の規範を重んじ、典雅を旨とするこれまでの詩には見られなかったものですが、このあと白居易の詩の特徴として育ってゆくものです。

勿言無知己     言う勿なかれ 知己ちき無しと
躁静各有徒     躁静そうせい 各々おのおの有り
蘭台七八人     蘭台らんだいの七八人
出処与之倶     出処しゅっしょれと倶ともにす
旬時阻談笑     旬時じゅんじも談笑を阻へだつれば
旦夕望軒車     旦夕たんせき 軒車けんしゃを望む
誰能讎校間     誰か能く讎校しゅうこうの間かん
解帯臥吾廬     帯を解いて吾が廬に臥せん
窓前有竹翫     窓前そうぜんに竹の翫もてあそぶべき有り
門外有酒沽     門外に酒の沽る有り
何以待君子     何を以てか君子くんしを待たん
数竿対一壷     数竿すうかん 一壷いっこに対す
友人がいないというわけではなく
さわがしい者から静かな者までいる
秘書省の七八人は
出勤 退出 いつもいっしょだ
十日もばか話をしないでいると
日がな一日 友人の車の来るのを待っている
校訂の仕事のあい間に
誰か私の部屋でくつろいでくれる者はいないか
窓辺には 眺めて楽しむ竹があり
門の外では 酒も売っている
さて そんな君子を何でもてなそうか
数本の竹が ひと壷の酒と向き合っている

 友人とのにぎやかな交流もはじまります。これまでの白居易は、どちらかというと孤独で、悲痛な感じの詩を作ってきましたが、流入(官吏になること)した途端、余裕のある態度に変わってきています。
 生計にもゆとりが生じてきましたので、翌年、貞元二十年(八〇四)には洛陽から徐州に旅行をし、また渭村下邽に住居を求めて、失われていた父祖の地を回復しています。
 いまや白居易は、一族の希望の星です。

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