長安早春旅懐     長安 早春の旅懐 白居易
軒車歌吹喧都邑  軒車けんしゃ 歌吹かすい 都邑に喧かまびすし
中有一人向隅立  中に一人いちにんの隅ぐうに向かって立つ有り
夜深明月巻簾愁  夜深けて明月 簾れんを巻いて愁え
日暮青山望郷泣  日暮れて青山 郷きょうを望みて泣く
風吹新緑草芽坼  風は新緑を吹いて草芽そうが
雨灑軽黄柳条湿  雨は軽黄(けいこう)(そそ)いで柳条(りゅうじょう)湿う
此生知負少年春  此の生 少年の春に負そむくを知る
不展愁眉欲三十  愁眉しゅうびを展べず 三十ならんと欲す
ゆきかう車 巷ちまたに歌舞音曲は溢れるが
街の片隅で ひとり佇む者がいる
夜更けに 簾を巻いて明月を愁え
日暮れには 故郷の山を想って涙を流す
風は新緑にそよぎ 草木は芽生え
雨は新芽に降って 柳の葉を濡らす
私の人生は 春を楽しむいとまもなく
愁いの眼で 三十歳を迎えるのか

 貢挙の省試は長安で行われますので、白居易はひとり馬に乗って都に着きました。当時は士階級の者が旅をするときには従者を伴うのが普通でしたが、白居易には従者を雇う費用もありませんでした。
 日暮れに長安に着いたらしく、土埃の舞う街路に閉門を告げる太鼓の音が響き、頼るべき知り合いもない街角で白居易は途方にくれます。
 貞元十六年(八〇〇)の春、白居易はすでに二十九歳になっていました。
 省試を前にして、誕生日の正月二十日ころには、ひとり不安な日々を過ごしていました。詩はそんな都での早春の感懐です。三十歳を前にして、やっと省試をうけるところまできましたが、自分の青春時代は苦労の連続でなんの楽しい思い出もない、というのが率直な感想でした。


玉水記方流     玉水 方に流るるを記す 白居易
良璞含章久     良璞りょうぼくしょうを含むこと久しく
寒泉徹底幽     寒泉かんせん 底に徹して幽なり
矩浮光灔灔     矩浮くふ 光 灔灔えんえんたり
方折浪悠悠     方折ほうせつ 浪 悠悠ゆうゆうたり
凌乱波紋異     凌乱りょうらんして波紋はもんことなり
縈廻水性柔     縈廻えいかいして水性すいせい柔らかなり
似風揺浅瀬     風の浅瀬を揺うごかすに似
疑月落清流     月の清流に落つるかと疑う
潜潁応傍達     潁えいに潜ひそむも応まさに傍達ぼうたつすべし
蔵真豈上浮     真しんを蔵して豈あに上り浮かべんや
玉人如不見     玉人ぎょくじんし見ずんば
淪棄即千秋     淪棄りんきせられて即ち千秋せんしゅうならん
良いあら玉は 美しい資質を内に秘め
冷たい湧水は 底まで澄みきっている
光は きらきらと揺れ動き
浪は 悠然として流れゆく
波紋は入り乱れておもしろく
めぐり流れる水は柔らかである
風が浅瀬に 漣を立てるようであり
月が流れに 落ちたかと疑う
潁水に隠れた者も ついに名を挙げ
真実を蔵する者は みだりに心を顕わさない
玉をみがく者が これを見出さなければ
永遠に捨て去られて終わるであろう

 都に頼る者もいない白居易ですが、それでも省試を前にして一応の努力はしています。
 行巻こうかんというのは、受験生が自分の文才を知ってもらうために、しかるべき政府高官に差し出す詩文集で、当時は一般に行われていました。
 白居易は雑文二十首、詩百篇を添えた「陳給事に与うる書」という行巻を門下省給事中(正五品上)の陳京に送っています。
 省試は二月に実施され、知貢挙(貢挙の責任者)になったのは尚書省礼部侍郎(正四品下)の高郢こうえいでした。高郢は至公至平に徹した人格者として高名でしたので、都に縁故もない寒門出の白居易にとって、高郢が知貢挙であったのは幸運であった言わなければなりません。
 進士科の試験では詩と賦の出来栄えが重視されますが、詩の課題は南朝宋の詩人願延之がんえんしの「王太常に贈る」という詩の一句で、「玉水 方まさに流るるを記しるす」というものでした。
 「流」を韻字として五言六十字でまとめなければなりません。
 白居易はこの詩で、自分を玉水に見たてます。「玉人」は知貢挙高郢のことで、あなたが玉水を見出さなければ、玉水は「淪棄せられて即ち千秋ならん」と、相手を持ち上げながら自分を売り込んでいます。

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