遊襄陽懐孟浩然  襄陽に遊びて孟浩然を懐う 白居易
楚山碧厳厳     楚山そざんみどりにして厳厳がんがん
漢水碧湯湯     漢水かんすい 碧にして湯湯しょうしょう
秀気結成象     秀気しゅうき 結んで象しょうを成すは
孟氏之文章     孟氏もうしの文章なり
今我諷遺文     今 我 遺文いぶんを諷ふう
思人至其郷     人を思うて其の郷きょうに至る
清風無人継     清風せいふう 人の継ぐ無く
日暮空襄陽     日暮にちぼ 襄陽じょうようむな
南望鹿門山     南のかた鹿門山ろくもんざんを望めば
藹若有余芳     藹あいとして余芳よほう有るが若ごと
旧隠不知処     旧隠きゅういんところを知らず
雲深樹蒼蒼     雲深くして 樹蒼蒼そうそうたり
楚山は碧 岩山は高くそびえ
漢水も碧 滔々と流れている
秀気は凝り固まって形となり
それが孟浩然の詩である
私はいま 遺された詩文を味わい
人柄を慕って 郷里を訪ねる
清らかな詩風をつぐ者はなく
暮れ方の襄陽の街はむなしい
南に鹿門山を望むと
かすかに漂う余韻がある
だが 隠棲の場所はわからず
雲は低くたれ 樹々は青々と茂っている

 進士をめざすには、本当は都の近くに出て勉学に励むべきでしたが、白家には生活の余裕がなかったようです。
 貞元七年(七九一)、二十歳になった白居易は再び徐州の符離に出て貢挙のための勉学に専念することになります。
 父の従兄弟の家に寄宿しての生活であったと思われますが、符離では同年代の友人もできて、いっしょに酒を飲んだり、陴湖ひこという遊楽の地に遊びに行って気晴らしをしたりしています。ところが貞元八年(七九二)に、父季庚が衢州別駕から襄州別駕に転勤になりました。
 襄州(湖北省襄樊市)は漢水中流の重要な都市ですので、栄転でしょう。
 白居易も翌貞元九年に襄州の州府のある襄陽に移っています。
 襄陽は盛唐の詩人孟浩然が生まれ、住んだ街ですので、白居易は孟浩然を偲ぶ詩を作ります。「鹿門山」は孟浩然の隠棲の地として有名でしたが、山の何処に隠棲の家があったのかわからなかったのです。
 白居易はこの年、二十二歳になっており、詩はこれまでの感傷的な作品と比べると、かなりの出来栄えになっています。


窗中列遠岫     窗中に 遠岫列なる 白居易
天静秋山好     天静かにして 秋山しゅうざん
窗開暁翠通     窗まど開きて 暁翠ぎょうすい通ず
遥憐峰窈宨     遥かに峰の窈宨ようちょうたるを憐あわれみ
不隔竹朦朧     竹の朦朧もうろうたるを隔へだてず
万点当虚室     万点ばんてん 虚室きょしつに当たり
千重畳遠空     千重せんちょう 遠空えんくうに畳かさなる
列檐攅秀気     檐のきに列つらなりて秀気を攅あつ
縁隙助清風     隙ひまに縁りて清風せいふうを助く
碧愛新晴後     碧へきは新晴しんせいの後のちを愛し
明宜反照中     明めいは反照へんしょうの中うちに宜よろ
宣城郡斎在     宣城せんじょう 郡斎ぐんさい在り
望与古時同     望ぼうは 古時こじと同じ
空は晴れて静か 秋の山は麗しく
窓をひらくと 朝の緑の気がしみわたる
遥かな峰の 奥深いおもむきは
竹林の茂みと調和して たおやかである
幾つもの あけ放した部屋に
遠くの空が 幾重にも重なり合う
連なる軒は 美しさを競い合い
隙間から 爽やかな風が吹いてくる
空の青さは 雨あがりのときがすぐれ
明るさは 夕焼けの照りかえしが好ましい
宣城には 太守の役所があり
その眺めは 謝朓のころと変わりないのだ

 襄陽にいる白居易には知るよしもありませんでしたが、実はこの年、貞元九年の貢挙で劉禹錫りゅううしゃくと柳宗元りゅうそうげんが進士科に及第しています。劉禹錫は白居易と同年齢の二十二歳、柳宗元は二十一歳です。
 さらに後に白居易の無二の友となる元稹げんじんは十五歳で明経科に及第しています。白居易は同年代の秀才に遅れを取ったことになりますが、それに追い打ちをかけるような不幸が翌年に白居易を見舞います。
 父季庚が襄陽で亡くなったのです。享年六十六歳でした。
 遺された家族は母陳氏のほか、兄と弟の四人家族です。
 下にもうひとり弟がいましたが、二年前に九歳で亡くなっていました。
 家族は喪に服することになりますが、兄の幼文ようぶんはまだ職に就いていなかったらしく、一家は窮乏に見舞われます。恐らく親族の援助に頼る生活がつづき、幼文と白居易は書写などの仕事で家計を助けたと思われます。
 足かけ三年(二年余)の喪が明けると、貞元十三年(七九七)に母陳氏は二十二歳の末子白行簡はくこうかんを伴って洛陽に移ります。
 そのころ兄の幼文も饒州浮梁県(江西省景徳鎮市)の主簿(従九品上)の地位を得て浮梁ふりょうに行ったようです。縁故による就職で、最下級の県吏ですが士身分の職に就いたことになります。
 白居易は翌貞元十四年に浮梁の兄のもとに身を寄せます。
 貞元十五年の秋、白居易は宣州(安徽省宣城県)で郷試を受けます。
 郷試は本来、本貫(本籍)で受けるものですので、祖父の出身地である渭村下邽かけい(陝西省渭南県)の属する京兆府で府試を受けるべきですが、そのころ父の従兄の白季康はくきこうが宣州の近くの溧水県りつすいけんに勤めていましたので、便宜を図ってもらったものと思われます。
 掲げた詩は郷試のときの課題の作品で、詩題の「窗中に 遠岫えんしゅう列なる」は南朝斉の詩人謝朓しゃちょうの詩から引かれたものです。
 『文選』もんぜんにも収められている詩ですので、白居易にとってはたやすい出題であったと思われます。謝朓は斉の宣州太守になり、郡衙からの眺めを賞賛する詩をいくつも作っていますので、白居易もその眺めがいまも変わらないことを規定の五言十二句の古詩にまとめました。
 そつのないまとめ方ですが、観察はゆきとどいています。

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