江南送北客因憑寄徐州兄弟書 白居易
    江南にて北客を送り 因って憑んで徐州の兄弟に書を寄す
故園望断欲何如  故園(こえん)望断(ぼうだん)して何如(いかん)せんと欲す
楚水呉山万里余  楚水そすい 呉山ござん 万里の余
今日因君訪兄弟  今日こんにち 君に因って兄弟けいていを訪
数行郷涙一封書  数行すうこうの郷涙きょうるい 一封の書
遥かに故郷を望むが どうすることもできない
呉楚の山川は 一万余里
今日やっと 兄弟への便りを託する
一通の封書に 望郷の涙の雫 幾筋か

 白居易は代宗の大暦七年(七七二)正月二十日に生まれました。杜甫の死の翌々年にあたり、まだ安史の乱の後遺症が色濃く残っているときです。
 白居易の家は祖父が貢挙の明経科に及第して、河南府鞏県(河南省鞏県)の県令で職を辞しています。明経科は進士科よりも一段劣る試験で、中央の高官になることはできません。
 地方官を転々として県令(日本の町長相当)で終わるのが普通でした。
 白居易の父も明経科の出身で、白居易が祖父の住んでいた鄭州新鄭県(河南省新鄭県)の家で生まれたのは、父親が単身で地方に赴任していたからでしょう。こうした地方回りの官吏の家を、唐代では寒門かんもんと言っていました。
 白居易は典型的な寒門の出であったといえます。白居易の幼少時は、河北、山東、河南東部の七藩鎮を中心に節度使の独立傾向が強く、節度使の職が世襲化して、しばしば政府と軍事衝突を起こす状況でした。
 十一歳のときに、白居易はそのころ住んでいた滎陽けいよう(河南省滎陽県)を離れて符離ふり(安徽省宿県)に避難します。符離には父の従兄弟の一家が住んでいて、戦乱を避けてその家に逃れたのです。
 翌年十二歳のときには、長江を越えてさらに南の越州(浙江省紹興市)に移っています。父親の白季庚はくきこうは、そのころ徐州(江蘇省徐州市)の別駕(州の次官のひとり)になっていて叛乱の節度使軍と戦っていましたから、父親と離れて南に避難したことになります。
 白居易は十四、五歳になると、進士科をめざさなければ官吏として大きな出世はできないことに気づき、受験勉強に打ち込むようになります。
 掲げた詩には「時に年十五」という題注が付してありますので、十五歳のときに江南から徐州の兄弟に送ったものです。
 だからこの詩によって、このころ家族は徐州の父親のもとに帰っており、白居易だけが江南に残って勉強をしていたことがわかります。
 ひとりではなく、親族もいっしょであったと思われます。


   賦得古原草送別   「古原草」を賦し得て 別れを送る 白居易
離離原上草     離離りりたる 原上げんじょうの草
一歳一枯栄     一歳いっさいに一たび枯栄こえい
野火焼不尽     野火やか 焼けども尽きず
春風吹又生     春風しゅんぷう 吹いて又生ず
遠芳侵古道     遠芳えんほう 古道こどうを侵し
晴翠接荒城     晴翠せいすい 荒城こうじょうに接す
又送王孫去     又また王孫おうそんの去るを送る
萋萋満別情     萋萋せいせいとして別情べつじょう満つ
青く茂る野原の草は
年に一度は枯れ また茂る
野火で焼けても なくならず
春風が吹けば また生えてくる
草は遥かな古道まで延び
緑の草が 荒れた城までつづいている
遠くへと 旅立つあなたを見送って
別れを惜しむこの心 野草のように満ちている

 この詩は白居易十五、六歳のときの作品とされています。
 友人の送別会の席で、「古原草」という題を与えられて作ったものであることは、詩題に示されています。宋代の呉曾ごそうという人が書いた『能改斉漫録』という書によると、白居易は十六歳のときに初めて長安に行き、当時、秘書省著作郎(従五品上)であった詩人の顧況こきょうに面会を求め、この詩を出しました。顧況は若者の名刺をみて「長安 米こめたかし 居きょやすからず」と言って白居易をからかいました。ところが詩を一読すると急に態度を改め、「箇の語を道い得れば 居 亦た何と難かたからんや 前言は之れに戯れしのみ」と言って称賛したといいます。詩中で「王孫」と言っているのは、故事を援用したもので、実際の王孫ではないでしょう。王孫のような貴人の席に招かれるには、白居易はまだ幼い無名の少年でした。

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