迴 棹         棹を迴す     杜 甫
宿昔試安命     宿昔しゅくせきかつて命めいに安んじ
自私猶畏天     自私じしお天を畏おそ
労生繋一物     生せいに労して一物いちぶつに繋かか
為客費多年     客と為りて多年を費ついや
衡岳江湖大     衡岳こうがく 江湖こうこ 大なり
蒸池疫癘偏     蒸池じょうち 疫癘えきれいひとえなり
散才嬰薄俗     散才さんさい 薄俗はくぞくに嬰かか
有跡負前賢     跡の前賢ぜんけんに負そむく有り
かつては 天命に安んじたこともあったが
わがまま過ぎて 天を畏れはばかることもある
生きるため 衣食の苦労を重ね
旅に出て 多くの歳月を費やした
衡岳の地方は 川や湖が広大で
蒸すような地もあり 悪疫がはやる
軽薄な世俗に 無用の才能でかかわれば
賢人の教えに 背く行為ともなるだろう

 方田駅で洪水に遭ったために、杜甫は郴州ちんしゅうに行くことを諦めます。舟をかえして衡州にもどり、そこに留まりました。
 衡州にいた夏のあいだに、杜甫は北への「迴棹」かいとうを決意したようです。この五言古詩は二十八句あります。はじめの八句は、これまでの自分の生き方に対する反省を述べているようです。
 「散才 薄俗に嬰り 跡の前賢に負く有り」の二句は、杜甫のあきらめの自己合理化を含んでいるといえるでしょう。

巾払那関眼     巾払きんふつなんぞ眼に関かんせむ
瓶罍易満船     瓶罍へいらい 船に満ち易やす
火雲滋垢膩     火雲かうんに垢膩こうじしげ
凍雨裛沈綿     凍雨とうう 沈綿ちんめんたるを裛うるお
強飯蓴添滑     強いて飯はんして蓴滑じゅんかつを添え
端居茗続煎     端居たんきょ 茗煎めいせんすることを続
頭巾や払子は 舟中に備えておらず
溜まるのは 大小の酒瓶だけだ
夕焼け雲に 垢と膩あぶらがひかり
にわか雨が 持病の体を濡らしてしまう
無理に食べようと蓴菜のとろみを添え
坐ったきりで 茶を煎じて飲んでいる

 現在の生活のようすです。「巾払」は隠者や道士の用いる道具でしょう。そんなものは舟中になく、溜まるのは酒の空瓶だけだと嘆きます。
 体も洗えず、雨漏りで濡れる病気の体です。食事もあまり咽喉を通らなくなり、「蓴滑」を添えて流し込むありさまです。
 「端居 茗煎することを続ぐ」とありますが、茶は当時、薬草の一種でした。のんびり茶を楽しんでいるという風情ではありません。

清思漢水上     清せいは思う 漢水の上ほとり
涼憶峴山巓     涼りょうは憶う 峴山けんざんの巓いただき
順浪翻堪倚     順浪じゅんろうかえって倚るに堪えたり
迴帆又省牽     迴帆かいはん 又た牽くことを省はぶ
吾家碑不昧     吾が家いえの碑くらからず
王氏井依然     王氏の井せい 依然いぜんたり
清らかな漢水のほとりを思い
涼しい峴山のいただきを想う
流れに沿って 川を下れば乗り心地よく
帆綱をひく手数も少なくてすむ
わが家の石碑のことは よく知っており
王粲の井戸は そのまま残っている

 これから行こうと思っている襄陽(湖北省襄樊市)への思いです。
 襄陽は洞庭湖から長江に出て、長江をすこしくだり、漢陽から漢水を遡ったところにあります。杜甫は河南府の鞏県で生まれましたが、先祖は晋の将軍杜預どよの曾孫の杜遜とそんが漢水中流の襄陽に移り、以来、杜家は襄陽を本貫(本籍)としていました。
 「峴山」は襄陽の南にある名山で、そこには杜氏の碑が立っていました。この碑は杜預が三国呉を征したときに、その功績を記したものです。「王氏の井」は襄陽の東陂とうばの下にあった王粲おうさんの井戸のことで、清涼な水が湧き出ていることで有名でした。
 その井戸はいまもそのまま残っていると、杜甫は先祖の地襄陽をなつかしく思い描きます。

几杖将衰歯     几杖きじょう 衰歯すいしに将ひき
茅茨寄短椽     茅茨ぼうし 短椽たんえんに寄せむ
灌園曾取適     灌園かんえんかつて適てきを取り
遊寺可終焉     遊寺ゆうじ 終焉しゅうえんす可
遂性同漁夫     遂性すいせい 漁夫と同じく
成名畏魯連     成名せいめい 魯連ろれんに畏ことなる
篙師煩爾送     篙師こうしなんじが送るを煩わずらわす
朱夏及寒泉     朱夏しゅか 寒泉かんせんに及べ
衰歯の歳だが 脇息や杖にひかれ
茅葺きの粗末な小屋に 身を寄せよう
むかし人は 畑に水をやって気ままに暮らし
寺に遊んで 生涯を終えた
天性のまま過ごすのは 滄浪の漁夫と同じ
成功するのは 魯仲連と違うのだ
船頭よ ご苦労だが送ってもらおうか
夏の盛り 冷たい泉に間に合うように

 はじめの四句では、これからの生活を描いています。
 三、四句は故事の引用で、「灌園 曾て適を取り」というのは戦国楚の陳仲子ちんちゅうしが宰相の職を辞して農園を耕した故事を指します。
 「遊寺 終焉す可し」は南朝梁の劉慧裴りゅうけいはいが廬山の東林寺に隠棲して生涯を終えたことを指しています。これからは畑を耕し、寺に隠棲して生涯を終えてもよいと杜甫は言っているのです。
 つぎの二句も故事の引用ですが、屈原を諭した楚の老魚夫は自分と同じだが、戦国時代に数々の功を成し遂げた魯仲連ろちゅうれんは自分とは違うと、先人と比べて自分を納得させているようです。
 最後の二句は、決然として力に満ちています。船頭に命ずる形を取っており、「朱夏 寒泉に及べ」というのは夏の終わりまでに王粲の井戸水が飲めるように、さあ舟を出してくれと船頭に命じるのです。
 だが、事は詩のように威勢よくは運びませんでした。

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