聶耒陽以僕阻水書致酒肉療饑荒江詩得代懐興尽本韻至県
呈聶令陸路去方田駅四十里舟行一日時属江漲泊於方田
 杜 甫
聶耒陽 僕が水に阻まるるを以て 書もて 酒肉を致し 饑を荒江に療さしむ 詩懐に代うるを得 興は本韻に尽く 県に至り聶令に呈す 陸路方田駅を去ること四十里なり 舟行すれば一日なり 時に江の漲るに属し 方田に泊す

   耒陽馳尺素     耒陽らいよう 尺素せきそを馳
   見訪荒江渺     訪わる荒江こうこうの渺びょうたるに
   義士烈女家     義士烈女の家
   風流吾賢紹     風流 吾が賢けんげり
   昨見狄相孫     昨さく 狄相てきしょうの孫そんを見るに
   許公人倫表     許す 公こうが人倫じんりんの表ひょうなるを
   前朝翰林後     前朝ぜんちょう 翰林かんりんの後のち
   屈跡県邑小     跡あとを県邑けんゆうの小なるに屈くつすと
耒陽の県令が いそぎの手紙をくれ
遠くの荒れた川べりまで訪ねてくれた
県令は 義士烈女の家柄で
その風韻をいまに受けつぐ
さきに 狄梁公の子孫と会ったとき
あなたを人倫の師表とほめていた
前朝の翰林院学士の後胤であり
県の小役人では もったいないと言っていた

 李亀年と会って間もない夏四月、長沙で兵乱が発生しました。湖南兵馬使の臧玠ぞうかいが潭州刺史崔瓘さいかんを殺して叛乱を起こしたのです。
 杜甫は乱を避けて北へ行ってもよかったかも知れないと思うのですが、向かった先は南で、衡州に避難しました。このときの詩に、「遠く帰れば児は側に侍し 猶お乳して女は旁かたわらに在り」という二句があります。
 この詩句は杜甫の一家に小さな男の子と乳飲み子をかかえた女がいたことを示しており、これが杜甫に小婦(妾)がいたことの証拠とされています。
 この小婦は杜甫が成都で官に就いていたときに召し抱えたものではないかという説が論ぜられているのです。衡州に着いた杜甫は、さらに湘水支流の耒水らいすいを遡って郴州(湖南省郴県)に行こうとしました。
 郴州ちんしゅうで録事参軍をしている舅父の崔偉さいいを頼ろうと思ったのでしょう。ところが衡州から八〇㌔㍍ほど遡った方田駅ほうでんえきで洪水に遇い、舟を進めることができなくなりました。
 杜甫は五日間も食事ができないほどの窮状におちいりますが、耒陽県(湖南省耒陽県)の県令の聶じょう氏が聞きつけ、食糧を届けて救ってくれました。
 その経緯は詩の長文の題詞につづられています。
 はじめの八句は、聶県令が『史記』刺客列伝に出てくる聶政じょうせいの子孫、「義士烈女の家」の出であり、前朝の翰林学士の後胤でもあるので、小さな県の役人にはもったいない人であると聶県令を褒めています。
 急場を救ってくれた県令に感謝するため、杜甫は方田駅から北へ二〇㌔㍍ほどの陸路をたどって耒陽県の県衙けんがへゆき、みずから詩を贈って礼を述べたようです。

知我礙湍涛     知る 我が湍涛たんとうに礙さまたげられ
半旬獲浩漾     半旬 浩漾こうようたるを獲るを
孤舟増鬱鬱     孤舟 増々ますます鬱鬱うつうつたり
僻路殊悄悄     僻路へきろことに悄悄しょうしょうたり
側驚猿猱捷     側かたわらに驚く猿猱えんどうの捷はやきに
仰羨鸛鶴矯     仰ぎては羨うらやむ鸛鶴かんかくの矯あがるを
礼過宰肥羊     礼は肥羊ひようを宰さいするに過ぎたり
愁当置清瓢     愁うれえては当まさに清瓢せいひょうを置くべし
ご存じのように 私は急流に妨げられ
五日間 洪水の害に見舞われた
小舟のなかで 胸はふさがり
田舎の道では 心細い限りであった
すぐ近く 猿のすばやい動作に驚き
舞い上がる鶴の姿を見て羨んだ
あなたの計らいは 羊肉の料理にまさり
このようなときこそ 清い酒が必要なのだ

 洪水のために五日間動けなかったことや、県衙まで訪ねていった道筋の心細い様子などが描かれ、食糧の差し入れに重ねて感謝の言葉を述べます。

摩下殺元戎     摩下きか 元戎げんじゅうを殺す
湖辺有飛旐     湖辺こへんに飛旐ひちょう有り
方行郴岸静     方まさに行く郴岸ちんがんの静せいなるに
未話長沙擾     未いまだ話せず長沙ちょうさの擾じょう
人非西諭蜀     人は西に蜀しょくを諭さとすに非ず
興在北坑趙     興きょうは北に趙ちょうを坑こうするに在り
崔師乞已至     崔師さいしいて已すでに至れり
澧卒用矜少     澧卒れいそつ用うること少きを矜あわれむ
問罪消息真     問罪もんざい 消息しょうそくしんなり
顔開憩亭沼     顔がんを開きて亭沼ていしょうに憩いこ
長沙では 部下が主将を殺し
弔旗が湖畔にひるがえっている
郴水の静かな岸辺をたどろうと ここまできたが
長沙の騒擾については まだ語っていない
私は西に蜀を諭すような人物ではないが
北に趙卒を坑殺したように賊を鎮めたい
聞けば 崔侍御が求めた援軍は到着したらしい
ただし澧州の兵の用い方は 足らないと思う
問罪の討伐軍が動いたのは 本当のようだ
だからいささか安心して 駅亭の池のほとりで休んでいる

 長沙の兵乱のようすが述べられます。
 耒陽県の県令には、乱の詳しい情報が伝わっていなかったのでしょう。
 最後の六句で杜甫は、自分は漢の司馬相如しばそうじょのように檄文を草して騒乱を鎮めるような有能な者ではないけれど、戦国秦の将軍白起はくきのように賊徒を穴に坑して鎮圧したい気持ちは持っていると、故事を借りて抱負を述べます。しかし、原注によると、すでに侍御の崔潠さいせんが洪州(江西省南昌市)に援軍を要請し、援軍は袁州(江西省袁水県)の北まで到達している。
 ただし、澧州(湖南省澧県)の兵の用い方は不十分であると、用兵の稚拙にまで言及します。用兵に稚拙はあっても、長沙の賊軍はすでに東と北から包囲される形勢になっているので、いささか愁眉を開いて駅亭のほとりで休んでいるのですと、杜甫は県令を安心させて答礼の一首を結ぶのでした。

目次三へ