清 明          清 明     杜 甫
著処繁華衿是日   著処ちょくしょの繁華 是この日に衿ほこ
長沙千人万人出   長沙ちょうさ 千人万人出
渡頭翠柳艶明眉   渡頭ととう翠柳すいりゅう 明眉めいびえん
争道朱蹄驕齧膝   道を争う朱蹄しゅてい齧膝げっしおご
此都好遊湘西寺   此の都遊ぶに好し 湘西しょうせいの寺
諸将亦自軍中至   諸将亦た軍中より至る
馬援征行在眼前   馬援ばえんが征行せいこう 眼前がんぜんに在り
葛強親近同心事   葛強かつきょうが親近しんきん 心事しんじ同じ
今日はどこでも賑やかさを自慢する
長沙では 千人万人の人出だ
渡津の柳は 緑の眉のように艶やかで
道を争う朱蹄の駿馬は 堂々と進む
湘水の西の寺は 遊宴に適しているので
将軍たちも 軍中からやってくる
まるで馬援の南征を見るようで
葛強への信任 忠誠心は自分と同じである

 小寒節の翌日は清明節です。大暦五年(七七〇)の清明節は旧暦三月三日で、上巳節と重なっていました。後半で出てきますが、このことによって杜甫はこの時まで潭州にいたことの証明になります。
 清明節の日には野外で遊ぶ習わしであり、人出があります。
 杜甫も人ごみに混じって郊外に出かけたようです。潭州の湘水西岸には岳麓山があり、山中には岳麓寺と道林寺の二寺がありました。寺の境内は遊宴に適しており、潭州駐屯の武将たちが宴会をひらいていました。
 それを見て杜甫は、後漢の名将「馬援」ばえんが武陵(湖南省常徳市)で新曲を作らせ、南征の兵士の苦労を慰めた話を想い出します。
 「葛強」かつきょうは晋の将軍山簡さんかんに愛された部将で、二人の信頼関係は杜甫の好きな話題でした。
 山簡の葛強への信任、葛強の山簡に対する忠誠心は自分と同じだと杜甫は詠いますが、それは杜甫の唐朝への忠誠心と同じということでしょう。

  金鐙下山紅日晩  金鐙きんとう 山より下れば紅日こうじつ
  牙檣捩柁青楼遠  牙檣がしょう 柁を捩もどらせば青楼せいろう遠し
  古時喪乱皆可知  古時こじの喪乱そうらんみな知る可く
  人世悲歓暫相遣  人世じんせいの悲歓ひかんしばらく相遣
  弟姪雖存不得書  弟姪ていてつ存すと雖いえども書を得ず
  干戈未息苦離居  干戈かんか未だ息まず 離居りきょに苦しむ
  逢迎少壮非吾道  少壮しょうそうを逢迎ほうげいするは吾が道に非ず
  況乃今朝更祓除  況いわんや乃すなわち今朝は更に祓除ふつじょなるをや
鐙をけって山から下りると 夕日は赤く
帆舟の柁を切れば 遠くに青楼が見える
古来より騒乱の時の人心はわかっている
人は悲しみにつけ歓びにつけ 一時の歓楽を尽くすのだ
弟や甥はいるが 便りはなく
兵乱はいまだにやまず 離別に苦しんでいる
若者の相手をするのは不得意で
まして今朝は 上巳の祓除の日に当たるのだ

 夕刻になったので、杜甫は山を下りて帰途につきます。
 後半初句の「金鐙」は金の装飾をほどこした立派な鐙あぶみということで権貴の者の乗馬、もしくは乗っている人を表わします。
 杜甫はそんな身分ではありませんので、これは将軍たちが帰途についたことをいうもので、杜甫もそれにつれて山を下ったのだと考えられます。
 このころの杜甫は自分の馬を持っている状況ではありませんので、乗っているとすれば借り物でしょう。つぎの対句は人心の機微を洞察して思いやりのあるものになっています。つぎの二句も弟や甥(姪は甥の意味)と離れて暮らしていることへの嘆きです。それも兵乱が止まないために、離居の苦しみを味わっているというのです。結びの二句は一転して、杜甫が旧弊で理屈っぽい自分の性格を反省するものです。今日は清明節で気晴らしの日であるが、同時に上巳の祓除ふつじょ(みそぎはらい)の日でもあるので謹厳にならざるを得ないのだと、言い訳めいたことを口にしています。
 遊びたがる若い家族となにか小さないさかいでもあったのでしょうか。

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