清明二首其一     清明 二首 其の一   杜 甫
朝来新火起新煙  朝来ちょうらい 新火しんか 新煙しんえんを起こす
湖色春光浄客船  湖色こしょく 春光しゅんこう 客船に浄きよ
繍羽銜花他自得  繍羽しゅうう 花を銜ふくみて他れ自得じとく
紅顔騎竹我無縁  紅顔こうがん 竹に騎る 我れ縁えん無し
胡童結束還難有  胡童こどうの結束けつそくた有り難く
楚女腰肢亦可憐  楚女そじょの腰肢ようした憐む可し
朝から火を起こし 新しい煙が流れる
水の色も春の光も 舟をめぐって清らかだ
美しい鳥が 花をくわえて得意げに飛び
子供らは竹馬に乗るが 私には縁がない
異族の子らの 細身の衣装もめずらしく
楚地の娘の 柳腰はかわいらしい

 白沙駅を出ると、舟はすぐに湘水に入ります。
 潭州(湖南省長沙市)は湘水の河口に近い城市といってよく、陰暦三月のはじめ、清明節のころには潭州に着いていました。清明節は同時に寒食明けでもあり、新しく火を起こして食事をつくり、墓参りや野遊びをします。
 陽暦では四月五日か六日にあたりますので、気候のよい季節です。
 子供が竹馬に乗るのも踏青(野遊び)の一種ですが、杜甫は故郷にいませんので墓参りはできません。土地に住む異族の子供の民族衣装や楚女の細い腰が杜甫の目にとまります。

不見定王城旧処   見ず 定王城の旧処きゅうしょ
長懐賈傅井依然   長く懐おもう 賈傅かふの井依然たるを
虚霑周挙為寒食   虚しく(うるお)周挙(しゅうきょ)が寒食を()すに
実藉君平売卜銭   実に藉る 君平くんぺいが売卜ばいぼくの銭
鐘鼎山林各天性   鐘鼎しょうてい 山林 各々おのおの天性
濁醪麤飯任吾年   濁醪だくろう 麤飯そはんが年としに任せん
定王の城の旧址は いまはないが
賈誼の井戸が残っているのは なつかしい
周挙も楽しんだ寒食明けだが ご馳走はない
厳君平の売卜百銭の得に あやかりたいものである
鐘鼎の富貴 山林の隠棲 人それぞれだが
濁り酒に粗末な飯 歳月の過ぎるがままに任せている

 後半六句のうち、はじめの二句は潭州にある史跡です。
 「定王城」は漢の長沙王呉発(定王)の城で、「不見」(見ず)というのは今はないという意味です。「賈傅の井」は長沙王の大傅になって潭州にきた賈誼かぎの宅中の井戸のことで、これは残っていたようです。「周挙」しゅうきょは後漢の并州へいしゅう刺史で、冬の寒食節を廃止したという言い伝えがあります。
 春の寒食節は周挙も楽しんだが、自分にはご馳走はないというのでしょう。「君平」は厳君平げんくんぺいのことで、占いをして銭を得ていました。
 末尾の四句は清明節になったが、杜甫は金銭に窮し、貧しい食事しかできないといい、富貴も隠棲も人の考え方次第だが、自分は濁り酒に粗末な飯でがまんをしていると強がりを言っているのか、嘆いているのか、判断に迷うような詠いぶりです。


 清明二首其二     清明 二首 其の二   杜 甫
此身漂泊苦西東   此の身漂泊して西東せいとうに苦しみ
右臂偏枯半耳聾   右臂うひは偏枯へんこし 半耳はんじは聾ろう
寂寂繋舟双下涙   寂寂せきせきたる繋舟けいしゅうならび下る涙
悠悠伏枕左書空   悠悠(ゆうゆう)たる伏枕(ふくちん)左書 (さしょ)(むな)
十年蹴鞠将雛遠   十年 蹴鞠しゅうきく 将雛しょうすう遠く
万里鞦韆習俗同   万里 鞦韆しゅうせん 習俗しゅうぞく同じ
身は異郷にさすらい あちらこちらで苦しみ
右臂はひきつって 片耳は聞こえない
淋しい岸に舟を繋ぎ 涙は頬を流れ落ちる
転々と寝返りを打ち なにも書けない
十年たてば 子供は蹴鞠で遊ばなくなり
いずこの地でも 鞦韆遊びに変わりはない

 清明節の日の詩というのに、其の二の詩はあまりにも悲痛で家族にも見せられなかったであろうと思われます。「右臂は偏枯し 半耳は聾す」と杜甫は体の不調を記録しています。そして、岸に繋いだ舟のなかで涙を流すのです。
 「悠悠たる伏枕 左書空し」は『詩経』関雎かんしょの詩を踏まえており、輾転反側して悩み夜も眠れないほどであり、字も上手に書けないという意味でしょう。
 「蹴鞠」けまりや「鞦韆」ぶらんこは踏青とうせいの代表的な遊びですが、十年たてば子供も大きくなって蹴鞠で遊ばなくなり、鞦韆の遊びは何処に行っても変わらないと、歳月の過ぎ去ったことや、異郷へのさすらい人の悲哀をそれとなく描いています。

旅雁上雲帰紫塞   旅雁りょがん 雲に上り紫塞しさいに帰り
家人鑽火用青楓   家人かじん 火を鑽るに青楓せいふうを用う
秦城楼閣烟花裏   秦城しんじょうの楼閣は烟花えんかの裏うち
漢主山河錦繡中   漢主かんしゅの山河は錦繡きんしゅうの中なか
春去春来洞庭闊   春去り春来たり 洞庭どうていひろ
白蘋愁殺白頭翁   白蘋はくひん 愁殺しゅうさつす白頭はくとうの翁を
帰雁は高く飛んで 長城のかなたへ去り
妻は火を熾すのに 生木の楓をつかう
長安の楼閣は 花霞のなかに消え
蜀漢の山河は 綾錦の織り目のようだ
春は去り春が来て 洞庭の湖うみはひろく
浮草の花の白さに 白頭翁は打ちのめされる

 春になって雁は長城の北の故郷に帰ってしまい、妻は清明節のために新しい火を熾そうとしますが、生木の楓ふうをもちいるので煙にむせています。
 詩句からは漂泊者の淋しい風景が鮮明な映像となって浮かび上がってきます。
 蜀に流亡してからすでに十年がたち、洞庭湖の湖畔にあって季節は変わりなく移っていきます。長安の都も蜀の山河も、いまは遠いものになってしまいました。
 杜甫はそうしたことを思いながら、浮き草の花の白さに打ちのめされると、漂泊の人生を嘆くのです。人々が楽しむ清明節は、哀しみの言葉でむすばれます。
 「清明二首」のうち其の二の詩は、杜甫の苦悩が生々しく描かれ、佳作といえるでしょう。

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