登岳陽楼       岳陽楼に登る 杜 甫
昔聞洞庭水     昔聞く 洞庭どうていの水
今上岳陽楼     今上る 岳陽楼がくようろう
呉楚東南坼     呉楚ごそ 東南に坼
乾坤日夜浮     乾坤けんこん 日夜にちや浮かぶ
親朋無一字     親朋しんぽう 一字いちじ無く
老病有孤舟     老病ろうびょう 孤舟こしゅう有り
戎馬関山北     戎馬じゅうば 関山かんざんの北
慿軒涕泗流     軒けんに慿れば涕泗ていし流る
かねて名高い洞庭湖を
いま 岳陽楼に上ってみはるかす
呉楚の地は 東と南に引き裂かれ
太陽と月は 昼夜湖上に浮かび時は流れる
親しい者から 一通のたよりもなく
老いた身に 小舟がひとつ
勾欄に慿りかかって関山の北
戎馬を思えば とめどなく涙は流れる

 岳州の渡津に舟をつけると、杜甫はすぐに岳陽楼に上ったようです。
 岳陽城は洞庭湖の湖口東岸にあって、岳陽楼は城壁の西門上に聳える三層楼でした。西南の眼下に洞庭湖を見渡すことができます。
 この五言律詩は、杜甫の名作のひとつに数えられています。
 首聯から対句を用い、前半四句は岳陽楼からの眺め、というよりも位置づけを雄大に詠います。「呉楚 東南に坼け」は方角的に難解ですが、洞庭湖が古代の呉と楚の国を東と南に分けていたと、大きく言うものでしょう。「乾坤 日夜浮かぶ」の乾坤は太陽と月のことで、洞庭湖の湖上に太陽と月が交互に浮かんで時は流れてゆくと、悠久の天地のいとなみの大きさを詠います。後半四句は感慨を述べるもので、前回の詩で「難危 気益々増す」と自分を鼓舞してみても、家族をひきつれての漂泊の旅はこころもとなく、戦乱の世を哀しむのでした。
 すでに安史の乱は終わっていましたが、この年の八月に吐蕃の兵が鳳翔(長安の西)に侵入し、関門の北の「戎馬」(兵乱)は収まっていませんでした。


 宿白沙駅       白沙駅に宿す   杜 甫
水宿仍余照     水宿すいしゅくお余照よしょう
人煙復此亭     人煙じんえんた此の亭
駅辺沙旧白     駅辺えきへん 沙 旧もと白く
湖外草新青     湖外こがい 草 新たに青し
万象皆春気     万象ばんしょう 皆 春気しゅんき
孤槎自客星     孤槎こさおのずからら客星かくせい
随波無限月     波に随う 無限の月
的的近南溟     的的てきてきとして南溟なんめいに近づく
消え残る夕陽 水辺に舟を泊め
今宵も水煙が 宿場の家から立ち昇る
駅亭の辺りは 白い砂浜がひろがり
岸辺には 青い若草が芽吹いている
すべては 春の気配を帯びはじめたが
一艘の筏に乗る私は さすらいの星なのだ
波に揺られて どこまでもつづく月の影
煌々と輝く中を 南の果てへ近づいてゆく

 杜甫の一家は岳陽で年を越し、翌大暦四年(七六九)の正月、洞庭湖を南へ下って潭州(湖南省長沙市)に向かいました。
 北の故郷ではなく、南の瀟湘の地へ向かった理由については、いろいろな説がありますが、乱後の北へ帰っても生活できないというのが隠された理由だったのではないでしょうか。
 当時の洞庭湖は現在の六倍もの広さがあり、湖の南岸は現在よりも五〇㌔㍍ほど南へ拡がっていたとみられています。洞庭湖の東南隅に青草湖と称する一角があり、白沙駅という宿駅がありました。
 杜甫は日暮れになって白沙駅の渡津に舟をつなぎました。
 この詩も前半四句は叙景、後半四句は感慨になっています。
 頷聯(三、四句)の各句を後ろから一字飛びに読むと、「白沙駅」「青草湖」の名前が詠み込まれています。
 杜甫は本来、詩中で言葉遊びをするような詩人ではないのですが、こうした隠し味は地もとの人を喜ばせる効果があったと思います。
 杜甫には地もとの人士に受ける詩を書く必要があったのです。
 しかし、後半四句の感慨には深刻なものがあり、杜甫は遊びを含む詩のなかにも本心を詠いこんでいるのです。

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