大暦三年春白帝城放船出瞿唐峡
        久居夔府将適江陵漂泊有詩凡四十韻
 杜 甫
  大暦三年春 白帝城より船を放ち 瞿唐峡を出ず
   久しく夔府に居り 将に江陵に適かむとして漂泊 詩有り 凡そ四十韻
老向巴人裏     老いて巴人はじんの裏うちに向かう
今辞楚塞隅     今いま辞す 楚塞そさいの隅ぐう
入舟翻不楽     舟に入りて翻かえって楽しまず
解䌫独長吁     䌫ともづなを解きて独り長吁ちょうく
窄転深啼狖     窄さくには転ず 深啼しんていの狖ゆう
虚随乱浴鳧     虚むなしく随う 乱浴らんよくの鳧
石苔凌几杖     石苔せきたい 几杖きじょうを凌しの
空翠撲肌膚     空翠くうすい 肌膚きふを撲
老いて巴人のあいだに住んでいたが
いまや私は 楚地の関塞を辞する
舟に乗ると 楽しくない気分が生じ
䌫を解いて ひとりためいきをつく
山峡に 猿の啼き声が悲しくひびき
ゆく手には 鴨の群れが虚しく泳ぐ
岸の岩苔は 脇息や杖に垂れ下がり
緑の山気は 肌にしみわたる

 大暦三年(七六八)の正月半ば、杜甫は意気揚々と夔州を発ち、三峡の険難をくだる舟の旅に出ました。この詩は「凡そ四十韻」とありますが、実際は四十二韻、八十四句の長詩です。
 はじめの八句は船出してすぐの山峡のようすです。
 杜甫は舟に乗るとすぐに楽しくない気分が生じたようで、将来への不安が胸にきざしたのでしょう。「狖」ゆうという変わった字が出てきますが、手長猿のことです。その啼き声のもの悲しさは、多くの詩人が詩に詠っています。

畳壁排霜剣     畳壁じょうへき 霜剣そうけんを排し
奔泉濺水珠     奔泉ほんせん 水珠すいしゅを濺そそ
杳冥藤上下     杳冥ようめいふじ上下しょうか
濃淡樹栄枯     濃淡のうたん栄枯えいこ
神女峰娟妙     神女峰 娟妙けんみょうなり
昭君宅有無     昭君宅 有無いうむ
曲留明怨惜     曲きょく留められて怨惜えんせきを明らかにし
夢尽失歓娯     夢ゆめ尽きて歓娯かんごを失す
断崖は 白刃を並べたようにつらなり
泉はほとばしって 玉のように降りそそぐ
藤の蔓は うす暗く垂れ下がり
樹木の色は 濃淡栄枯さまざまである
神女峰は あでやかな姿で立ち
王昭君の生まれた村は 在るのか無いのか
昭君怨の曲は 今に残って怨みを伝え
楚王の雲雨 陽台の夢は覚めて儚い

 舟は三峡の急流に進みいります。両岸の断崖は白刃を並べたようにつらなり、断崖を落ちる水は玉のような飛沫となって降りかかってきます。
 やがて神女峰が見えてきて、舟は巫峡のあたりを進んでいます。
 杜甫は王昭君や楚王の陽台の故事を思い浮かべて感慨にふけるのです。

擺闔盤渦沸     擺闔はいこう 盤渦ばんか
敧斜激浪輸     敧斜きしゃ 激浪げきろういたさる
風雷纏地脈     風雷ふうらい 地脈ちみゃくを纏まと
冰雪曜天衢     冰雪ひょうせつ天衢てんくに曜かがや
鹿角真走険     鹿角ろくかく 真に険けんに走り
狼頭如跋胡     狼頭ろうとうを跋むが如し
一開一合して 流れは渦を巻き
急流は傾いて 激浪が湧く
渦の音は 風雷が地脈を揺するようで
浪の砕けるさまは 氷雪のきらめくのに似る
鹿角灘では まことに険しいところを過ぎ
狼頭灘では 狼の顎肉を踏む思いであった

 舟は急流にもまれながら進んでゆきます。鹿角灘たん、狼頭灘の難所を進んでいきますが、「胡を跋むが如し」の胡は頤の懸肉けんにくのことです。
 狼が頭を低くして進むとき頤の垂れ肉がさがっていますが、それを踏むような危険な思いで進んだというのでしょう。
 激流のなかを舟が舳先を低くして突き進んでゆくようすを、奇抜な比喩を用いて描いているとも言えます。

悪灘寧変色     悪灘あくだんなんぞ色を変ぜむや
高臥負微軀     高臥こうがするは微軀びくに負そむ
書史全傾撓     書史しょし 全く傾撓けいとう
装囊半圧濡     装囊そうのうなかば圧濡あつじゅせらる
生涯臨臬兀     生涯 臬兀げつごつたるに臨み
死地脱斯須     死地 脱すること斯須ししゅなり
どんな難所であろうと顔色を変えない
身の水難など 心配せずに眠っている
束ねた書物は傾いてしまい
荷物袋はなかば押し潰されて濡れている
実に生命の危険に出合い
やっとのことで 死地を脱した

 舟は激流を越えてゆきますが、一家の主人として、杜甫はどんな難所であろうと顔色を変えたりはできません。心配せずに眠っていると強気ですが、大揺れのために荷物は傾き、水に濡れています。
 急流を脱して「死地 脱すること斯須なり」と、やっとのことで死地を脱したことに安堵の胸をなでおろします。

不有平川決     平川へいせんの決する有らずんば
焉知衆壑趨     焉いずくんぞ衆壑しゅうがくの趨すうするを知らむ
乾坤霾漲海     乾坤けんこん 漲海ちょうかいに霾つちふ
雨露洗春蕪     雨露うろ 春蕪しゅんぶを洗う
鷗鳥牽糸颺     鷗鳥おうちょう 牽糸けんしあが
驪龍濯錦紆     驪龍りりょう 濯錦たくきん
落霞沈緑綺     落霞らくか 緑綺りょくき沈み
残月壊金樞     残月ざんげつ 金樞きんすうくず
平らな流れになってはじめて
多くの谷水を集め 江かわとなるのを知る
天地に広がる水面に 水煙がふり
雨露が 春の野を洗い清める
鷗は 白糸を引くように舞い昇り
波は 黒龍の錦を洗うかのようにうねる
夕霞は 緑の絹のように垂れさがり
残月は こがねの樞とぼそのように崩れている

 舟は三峡を抜け、湖北の平野にさしかかりました。
 長江は大河の流れとなり、水面は天地にひろがっています。
 雨露に濡れた野、空飛ぶ鷗、波のうねり、長江に夕霞がかかり、いま沈もうとしている月は樞(扉の軸穴)のようにくぼんいます。
 斬新で美しい比喩ですね。

泥筍苞初荻     泥筍でいじゅん 初荻しょてきに苞ほう
沙茸出小蒲     沙茸さじょう 小蒲しょうほ
雁児争水馬     雁児がんじ 水馬すいばを争い
燕子逐檣烏     燕子えんし 檣烏しょううを逐
絶島容煙霧     絶島ぜっとう 煙霧えんむを容
環洲納暁晡     環洲かんしゅう 暁晡ぎょうほを納
前聞弁陶牧     前聞ぜんぶん 陶牧とうぼくを弁べん
転盼払宜都     転盼てんはん 宜都ぎとを払はら
荻の新芽は 泥中の筍のように膨らみ
蒲の若葉は 沙上にふさと新芽を出す
雁は争って 小蝦をついばみ
燕は檣上の 烏のあとを追う
離れ小島に 煙霧は立ちこめ
連なる中洲に 朝夕の光りが宿る
かつて聞いた 陶の牧場もはっきり見え
眺める暇もなくて 宜都の地を過ぎる

 朝になって、沿岸の風景はさらに細かく描写されます。
 詩人の目はどんな小さな変化も優しくとらえて見逃しません。
 「陶牧」は陶郷の牧場という意味で、江陵の西に陶朱公の塚があり、その付近の原野が牧場になっていました。しかし、そうしたものをゆっくり眺める暇もなく、舟は宜都(湖北省宜都県)の前を過ぎてゆきます。

県郭南畿好     県郭けんかく 南畿なんき好し
津亭北望孤     津亭しんてい 北望ほくぼうなり
労心依憩息     労心ろうしんりて憩息けいそく
朗詠劃昭蘇     朗詠ろうえいかくとして昭蘇しょうそ
意遣楽還笑     意られて楽しみて還た笑う
衰迷賢与愚     衰えては迷う賢けんと愚
飄蕭将素髪     飄蕭ひょうしょう 素髪そはつを将もっ
汨没聴洪鑪     汨没こつぼつ 洪鑪こうろに聴まか
松滋県の南郭は 見晴らしが好く
北を望めば 江津の亭がひとり立っている
旅に疲れた心をやすめ
ほがらかに詩を吟ずれば 気分もよみがえる
憂さを晴らして 楽しく笑う
老衰して迷うのは 愚者も賢者も同じと
吹きさらしの白髪の身であるから
浮沈は 大自然の摂理にまかせている

 宜都を過ぎると、「県郭 南畿好し」とあります。県郭は原注に「路、松滋県に入る」とあって、松滋県城の外郭壁のことです。これを「南畿好し」というのは、粛宗のときに江陵府を南都としたため、江陵の南にあたる松滋県のあたりを、南都の畿内の南でいいところだと褒めていることになります。
 そこから北を望むと、峡州の津亭しんてい(港の建物)もみえます。
 松滋県城のところで長江は北にうねって流れています。
 杜甫はすぐに江陵に入らずに、松滋県で三峡を越えた旅の疲れをいやし、この長篇の五言古詩をまとめたようです。
 詩の内容が旅の情景の描写から、作者の感懐に変わっています。

丘壑曾忘返     丘壑きゅうがくかつて返るを忘れむや
文章敢自誣     文章ぶんしょうあえて自ら誣いむや
此生遭聖代     此の生せい 聖代に遭
誰分哭窮途     誰か分ぶんとせむ 窮途きゅうとに哭こくするを
臥疾淹為客     臥疾がしつひさしく客と為
蒙恩早廁儒     蒙恩もうおん 早く儒じゅと廁まじわ
廷争酬造化     廷争ていそう 造化ぞうかに酬むく
襆直乞江湖     襆直ぼくちょく 江湖こうこに乞
山水の境地にもどることは 忘れていない
文章において 自分を欺くこともない
聖王の御代に生まれたのだから
窮地に陥る痛哭を 当然とは思わない
いまは疾に臥して 旅人なっているが
恩恵により早くから官儒に加えられた
天地の恩に酬いようと 朝廷で諌争し
正直に田舎に出してもらった

 この五言古詩は、これから江陵に乗りこんで行くための準備の手紙でもあります。そこで杜甫は、自分の心境を江陵に入る友人知己に吐露しています。
 過去をかえりみ、自分は粛宗に用いられたが正直に諌争したために田舎に左遷されたのだと、職を辞した事情を語ります。

灔澦険相迫     灔澦えんよけんあい迫り
滄浪深可逾     滄浪そうろう 深きも逾ゆ可
浮名尋已已     浮名ふめいにわかに已已いい
嬾計卻区区     嬾計らんけいかえって区区くくたり
喜近天皇寺     近づくことを喜ぶ天皇寺てんおうじ
先被古画図     先ず被ひらく古画図こがず
応経帝子渚     応まさに経るなるべし帝子ていしの渚しょ
同泣舜蒼梧     同じく泣かむ 舜しゅんの蒼梧そうご
これまで 灔澦堆の険に阻まれていたが
今後は 滄浪の水も越えられるであろう
俗世の名声などに 未練はないが
かえって 怠け者の小さな計画はある
江陵の天皇寺のそばにきたのは嬉しい
さっそく 古い画図をひろげてみよう
帝子ゆかりの湘水の渚も通ることだろう
帝舜の蒼梧の野では 共に泣くであろう

 灔澦堆えんよたいは三峡にある難所のひとつですが、しばしば人生の難所にも例えられます。「滄浪」は古代の荊州(江陵)にあった川で、杜甫は灔澦堆を越えたからには、これからは滄浪の深い淵も越えられるであろうと決意を述べます。俗世の名声などに未練はないが、自分のような怠け者にもささやかな計画はあると、仕官への希望を口にします。
 しかし、そのことをあからさまには言いません。
 「天皇寺」は江陵にある寺で、江陵に着いたら天皇寺にあるという古い画図をひろげてみよう。また「帝子」は尭帝の二人の娘(姉妹)のことで、帝舜の妻でした。湖南地方に巡行した舜を追って江南にきた二人は舜の死を聞いて、湖水に身を投げて夫に殉じました。帝舜が死んだと伝えられる「蒼梧」の地で共に泣こうというのは、国家を思う気持ちをあらわすものでしょう。

朝士兼戎服     朝士ちょうし 戎服じゅうふくを兼
君王按湛盧     君王くんおう 湛盧たんろを按あん
旄頭初俶擾     旄頭ぼうとう 初めて俶擾しゅくじょう
鶉首麗泥塗     鶉首じゅんしゅ 泥塗でいとに麗
甲卆身雖貴     甲卆こうそつたつとしと雖も
書生道固殊     書生しょせいみちもとことなり
出塵皆野鶴     出塵しゅつじんみな野鶴やかく
歴塊匪轅駒     歴塊れきかい 轅駒えんくに匪あら
伊呂終難降     伊呂いろついに降り難し
韓彭不易呼     韓彭かんほう 呼び易やすからず
朝廷の士は 同時に軍服をつけ
わが君は 湛盧の剣を帯びておられる
旄頭の胡星が騒ぎはじめてから
鶉首の星は 泥まみれになっている
甲兵の身分が いまは貴いといっても
書生の道は おのずから異なっている
世塵を超越する者は みな野の鶴であり
駿馬は 柁棒の下に寝そべる駒ではない
伊尹・呂尚のような人物は 現われ難く
韓信や彭越を 呼び捨てにはできない

 杜甫に仕官の心があることは、最後の八聯(十六句)でわかります。
 まず、はじめの十句では現状を批判します。戦乱のため、いまや廷臣は軍服をつけ、天子も剣を帯びているありさまです。
 「旄頭 初めて俶擾」というのは安禄山の乱がはじまったことをさし、そのために「鶉首」の星も泥まみれになっているといいます。鶉首というのは星宿の蓁の分野のことで、都長安の位置をしめす星のことです。
 戦乱の世では兵士が貴ばれるけれども、書生(文官)には書生としての道があるであろう。隠遁するのは野原の鶴であり、馬は柁棒の下に寝そべっているべきでないと、杜甫は自分の考えを述べます。殷の伊尹いいんや周の呂尚ろしょうのような大政治家は容易に現われず、漢の韓信かんしんや彭越ほうえつを軽んじてはいけないと、いまは政事や武略の士が必要なことを力説します。

五雲高太甲     五雲ごうん 太甲たいこうに高く
六月曠摶扶     六月ろくがつ 摶扶たんぷむな
廻首黎元病     首こうべを廻めぐらせば黎元れいげん病み
争権将帥誅     権けんを争いて将帥しょうすいちゅうせらる
山林託疲苶     山林さんりん疲苶ひてつを託す
未必免崎嶇     未だ必ずしも崎嶇きくを免まぬがれず
五色の雲は 太甲よりも高く
六月で羽ばたく大鵬も飛び立てない
みわたせば 人民は病み果て
権力を争って 将軍は殺し合っている
疲れた体を 山林に託そうと思っても
険しい行路を 逃れる道はないだろう

 結びの六句のはじめにある「五雲 太甲に高く」は難解句とされており、解釈は確定していないようです。つぎの「六月 摶扶曠し」は『荘子』に出てくる有名な説話を踏まえており、大鵬は九万里を飛んで六か月間休息するというが、風がなければ飛ぶことができないのだと言っています。
 つまり官に用いられることの必要性を説くものです。
 そう考えると、「五雲 太甲に高く」は天子を褒める言葉かもしれません。
 みわたすと人民は病み果て、将軍たちは権力を争って殺し合っています。
 自分は疲れた体を山野に託す、つまり隠退しようと思っても、この乱れた国を立て直すためには、たとえ困難はあろうとも、一臂の力を尽くしたいと志を述べています。杜甫は江陵に入るに当たって、自分の志のあるところを長篇の五言詩で友人たちに書き送ったのです。

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