人日二首 其二    人日 二首 其の二   杜 甫
   此日此時人共得  此の日 此の時 人 共に得
   一談一笑俗相看  一談 一笑 俗ぞく 相い看
   樽前柏葉休随酒  樽前そんぜんの柏葉はくよう 酒に随うことを休
   勝裏金花巧耐寒  勝裏しょうりの金花きんか 巧みに寒に耐
   佩剣衝星聊暫抜  佩剣はいけんの星を衝く 聊いささか暫く抜き
   匣琴流水自須弾  匣琴こうきんの流水 自ら須すべからく弾だんずべし
   早春重引江湖興  早春 重ねて引かる 江湖こうこの興きょう
   直道無憂行路難  直ちに道う 行路の難かたきを憂うる無かれと
人日の今日この時 皆が共に集まって
語り合い笑い合い 習わしに従って顔を合わせる
酒樽の前の柏葉は 酒に浸す必要もなくなり
髪飾りの金の花は 上手に寒さに耐えている
星を衝くほど輝く剣 抜いてしばらく眺めやり
箱から名琴を出して 流水のように弾いてみたい
新春  またも江湖遊覧の楽しみに 心をひかれ
まずは言っておこう 旅の難儀を心配するなと

 杜甫は年末には荊州に行く決心を固めていました。
 荊州には杜観のほかに、従弟の杜位といが荊南節度使衛伯玉えいはくぎょくの行軍司馬(節度副官)をしていましたし、旧友鄭虔ていけんの弟鄭審ていしんも荊州尹(州次官)になって江陵の使府に勤めていました。若いころに斉州で世話になった皇族の李之芳りしほうは礼部尚書(正三品)にまで上っていましたが、このときは罪に問われて宜昌(湖北省宜昌市)に流されてきていました。
 知り合いの者が偶然に江陵に集まっていましたので、杜甫はいよいよ荊州に行く機会が来たと判断したようです。
 年内に柏茂琳をはじめ、夔州で世話になった人々に挨拶を済ませ、夔州を発つ準備をととのえて新年を迎えました。
 明ければ大暦三年(七六八)です。正月七日は人日じんじつといって、七種類の野菜を入れた羮こうを食べて健康を祝うのが当時の習慣でした。
 詩は中四句を前後の二句で囲む形式ですが、杜甫はすこぶる上機嫌であるのが詩句から窺がえます。そして結びは「早春 重ねて引かる 江湖の興 直ちに道う 行路の難きを憂うる無かれと」、これから江湖遊覧の旅に出かけるが、行路の心配はないと杜甫は皆を安心させています。



 書堂飲既夜復邀李尚書下馬月下賦絶句 杜 甫
  書堂にて飲む 既に夜なり 復た李尚書を邀え
                        馬より下り月下にて賦せし絶句

   湖月林風相与清  湖月こげつ 林風りんぷうあいともに清し
   残尊下馬復同傾  残尊ざんそん 馬より下りて復た同ともに傾けん
   久挵野鶴如双鬢  久しく野鶴(やかく)双鬢(そうびん)の如くなるを(まか)
   遮莫隣鶏下五更  遮莫さもあらばあれ隣鶏りんけいの五更ごこうを下るを
湖上に照る月林の風 ともに清さを比べ合う
馬から降りて残り酒 これからいっしょに飲みましょう
久しく前から両鬢が 鶴白髪となったが まあいいや
鶏が夜明けを告げても 勝手に鳴かせておきましょう

 杜甫が江陵に着いたのは二月の末、雨の降る日でした。
 杜甫はとりあえず、行軍司馬の従弟杜位といの家に旅装を解きます。
 士人として世に尽くす志があったことは確かですが、同時に家族を養うために収入も必要でした。杜甫ははじめ、杜位を頼って荊州節度使衛伯玉えいはくぎょくの辟召へきしょうを期待していたようです。
 宜昌にいた李之芳は、そのご荊州の夷陵に移ってきていました。
 江陵少尹の鄭審も中央では秘書監(従三品)をしていた高官ですし、古くからの知友ですので、杜甫は妻子を当陽にいる杜観のもとに預けると、ひとりで江陵にとどまって彼ら旧知の高官たちと交流していたようです。
 詩はそうした交流のひとこまで、胡侍御(侍御も旧職)の書堂で杜甫が李之芳や鄭審らとの宴会に同席したとき、途中ではやく帰ってしまった李之芳を、杜甫が再度、馬で迎えに行ったときの作品です。

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