第五弟豊独在江左近三四載寂無消息覔使寄此二首其二
   第五弟豊 独り江左に在り 近ごろ三四載 寂として消息無し
                  使いを覔めて此れを寄す 二首 其の二 杜 甫

   聞汝依山寺      聞く 汝は山寺に依ると
   杭州定越州      杭州なるか定めし越州ならん
   風塵淹別日      風塵ふうじんに別日べつひひさしく
   江漢失清秋      江漢こうかんに清秋せいしゅうを失す
   影著啼猿樹      影は著しるし 啼猿ていえんの樹じゅ
   魂飄結蜃楼      魂こんは飄る 結蜃けつしんの楼ろう
   明年下春水      明年みょうねん 春水しゅんすいを下らば
   東尽白雲求      東のかた白雲はくうんを尽くして求めん
聞けば汝は 山寺に身を寄せているとか
杭州であろうか 多分越州であろう
戦塵のなか 永いこと別れたまま
江漢の地で 私はむなしい秋を過ごしている
わが影は猿の啼く巫峡の樹に映っているが
魂は蜃気楼の立つ東の海へ飛んでいる
明年 春の長江を下れば
東のかた白雲を極めて 汝を探し求めるであろう

 春に夔州を訪れた異母弟の杜観は、このころ妻をともなって荊州(湖北省江陵県)の北にある当陽(湖北省当陽県)に来ていました。
 官に就いていたかどうかは不明ですが、東方の済州で成長した杜観が妻を連れて江南の県にやってくるというのは、微官であっても官途によると考えた方が妥当でしょう。杜観はしばしば杜甫に書信を送って、荊州に出てくるように促していました。そうした書信のひとつに義母盧氏の生んだ末弟の杜豊とほうの消息がありました。
 杜豊はこのころまだ十代の後半であったと思われます。
 その杜豊が「江左」、つまり北から見て長江の左、江東の地にあり、山寺に身を寄せていることを杜甫は知ります。別れたとき杜豊はほんの幼児でしたので、杜甫は顔の記憶も薄らいでいたでしょう。十代の少年が「山寺に依る」ということがどういうことか、杜甫には分かっています。
 苦労をしている末弟豊にひきかえ、長兄で戸主の自分は「江漢」の地でむなしい秋を過ごしていると反省しています。杜甫はすでに、来春になれば夔州を発って長江を下る決心をしていたらしく、「明年 春水を下らば」といい、東のかた江東にまで行って杜豊を捜し求めるであろうと言っています。
 義母盧氏と妹のことは何も触れていませんが、このとき盧氏の一家はばらばらになっていたのではないでしょうか。しかし、杜甫は江東まで行くことはできませんでした。杜豊とも会うことはできずに世を去るのです。


   冬 至          冬 至      杜 甫
   年年至日長為客   年年ねんねん 至日しじつつねに客と為
   忽忽窮愁泥殺人   忽忽こつこつたる窮愁きゅうしゅうは人を泥殺でいさつ
   江上形容吾独老   江上の形容 吾は独り老い
   天涯風俗自相親   天涯の風俗 自おのずから相い親しむ
   杖藜雪後臨丹壑   杖藜じょうれい 雪後せつご 丹壑たんがくに臨む
   鳴玉朝来散紫宸   鳴玉めいぎょく 朝来ちょうらい 紫宸に散ずるならん
   心折此時無一寸   心は折くだけて此の時 一寸無し
   路迷何処是三秦   路は迷う 何れの処ところか是れ三秦さんしん
年毎の冬至の日を 旅路で迎え
せまりくる窮状に 心は疲れ泥にまみれる
川のほとりに独り 老いさらばえた姿となり
さいはての風俗に 慣れ親しむ身となった
雪の晴れ間に杖をつき 谷に臨んで立っているが
都では朝から玉佩の音 御座所をさがるころだろう
このとき心は砕け散り 方寸の形を保てない
いずこが都の方角かと 路のあたりを迷い見る

 やがて冬がやってきて、杜甫は夔州で二度目の冬至の日を迎えます。
 「冬至」とうじは陰暦の十一月二十二日前後で、唐代では冬至の前後に七日間の休暇が与えられる習慣でした。その日、都では天子は紫宸殿ししんでんにおいて群臣の朝賀を受け、圜丘えんきゅう(天をかたどる円形の壇)に上って天を祭り、天下の太平と五穀の豊穣を祈りました。杜甫は世界の果てのような地にあって、土地の風俗にもなじむようになってしまった自分のことを考えながら、かつて都で経験した冬至の朝賀の模様を思い出します。
 すると心臓が破裂しそうな悲しい気持ちになり、都の方角さえ見失ってしまうと嘆くのです。
 都を慕う杜甫の気持ちは、消そうとしても消すことができません。

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