雨意欲成還未成 雨意 成らんと欲して還 お未だ成らず
帰雲却作伴人行 帰雲 却って人に伴って行くを作 す
依然壊郭中牟県 依然たる壊郭 中牟県
千尺浮屠管送迎 千尺の浮屠 送迎を管す
雨は降ろうとして降り出さず
雲を道連れに 故郷へ向かう
中牟県の城壁は崩れたままだ
千尺の仏塔が 送迎役をつとめている
宋は澶淵の盟(一〇〇四)以来、遼と平和な関係を維持してきましたが、遼の背後で女真族の
宋は金を味方に引き入れて遼を挟撃する計画を立て、徽宗の宣和四年(一一二二)に金軍は遼の都燕京(北京)を落としました。
遼帝は西に走って、宋軍は翌宣和五年に燕京に入城しました。
これらの戦果は金軍の力に負うところが多く、宣和七年に金は独力で遼を滅ぼすと、宋都汴京べんけいに向けて南下してきました。
これを恐れた徽宗は位を欽宗に譲って、江南に逃げ出してしまいました。
このときの金軍には宋都を落とすまでの意図はなく、華北に三か所の領土割譲などを約束させて北に引き上げてゆきました。
上皇となった徽宗も都にもどってきましたが、宋は金との約束を守ろうとしなかったので、翌欽宗の靖康元年(一一二六)に金は再び大挙して汴京を包囲し、宋都を開城させました。詩はこの動乱のなか、陳与義が故郷の洛陽に向かうときの作で、「中牟県」(河南省中牟県)は宋都のすぐ西にあり、都の防衛拠点ですが、城壁は崩れたままだと嘆いています。「浮屠」は仏教・仏僧の意味ですが、「千尺」とあるので、ここでは仏塔のことでしょう。
送迎役は地もとの役人ではなく仏塔が務めていると皮肉を言っているわけで、まだ国が滅びるといった危機感は窺えません。
春 寒 春 寒 陳与義
二月巴陵日日風 二月の巴陵 日日 の風
春寒未了怯園公 春寒未だ了らず園公 を怯かす
海棠不惜臙脂色 海棠は惜しまず臙脂 の色を
独立濛濛細雨中 独り立つ 濛濛たる細雨 の中
二月になっても 岳陽の街に風が吹き
春の寒さが 小園住まいの身を襲う
そぼ降る雨で あたり一面煙るなか
臙脂の色もあざやかに 海棠の花が立っている
宋都汴京に入城した金軍は宋朝に対して莫大な賠償を要求しましたが、朝廷にはこれに応ずるだけの財物がありませんでした。そこで翌年、欽宗の靖康二年(一一二七)三月、上皇徽宗、皇帝欽宗をはじめ、宋の皇族、皇后、高官、宮女など数千人を捕らえて北に拉致してゆきました。
これを「靖康の変」といいます。北宋は滅亡し、金軍は抵抗する宋の民間義勇軍などを追って南下をはじめました。
陳与義は難民になって南に逃れ、翌年(南宋高宗の建炎二年)の二月には「巴陵」(湖南省岳陽市)の小園を借りて仮住まいをしていたようです。
詩は雨の降る中、海棠の花の臙脂の色に目を止めているものです。