宗武生日       宗武が生日  杜 甫
小子何時見     小子しょうし 何の時か見えし
高秋此日生     高秋こうしゅう 此の日生まる
自従都邑語     都邑とゆうに語りしより
已伴老夫名     已に老夫ろうふの名を伴う
詩是吾家事     詩は是れ吾が家いえの事
人伝世上情     人の伝うるは世上の情じょうよりす
熟精文選理     熟精じゅくせいせよ 文選もんぜんの理
休覔彩衣軽     覔もとむるを休めよ 彩衣さいいの軽かろきを
凋瘵筵初秩     凋瘵ちょうさいえん初めて秩ちつ
敧斜坐不成     敧斜きしゃ 坐する成らず
流霞分片片     流霞りゅうか 分つこと片片へんぺん
涓滴就徐傾     涓滴けんてききて徐おもむろに傾く
少年よ 汝がこの世に生まれたのは
秋も盛りの今日なのだ
街中で物が言えるようになってから
汝の名はすでにわが名とともにある
詩はわが家の伝統の事わざ
人がわが詩を伝えるのは 世間が認めているからだ
文選を熟読して理解せよ
老来子のまねをして五色の衣で舞わずともよい
わが病中に汝の賀筵がひらかれて
正座ができず 体は斜めにかしいでいる
すこしばかりの酒を分けてもらい
おもむろに杯を傾けて 一滴一滴のみほすのだ

 杜甫は詩によって自分の思想や感情を述べましたが、詩は知識人としての教養のひとつであり、文名によって任官するのが目的でした。
 任官できずに詩だけを作っているのは名誉なことではなく、これは当時、一般の考えでした。杜甫が大詩人であるというのは、後世の評価なのです。
 ところがこの詩では、「詩は是れ吾が家の事 人の伝うるは世上の情よりす」と、はじめて詩人であることは杜家の伝統であると言い切っています。
 そして将来を期待していた次男の宗武そうぶに、官途で出世して親を喜ばせようと思わなくてもよいと言っています。杜甫がこのように考えるようになったのは、夔州にいたおよそ二年のあいだに、自分の生涯に関する回顧の詩をいくつか書き、人生への反省を重ねたからだと思います。
 当時としては重要な決断でした。


   登 高          登 高      杜 甫
風急天高猿嘯哀   風急に 天高くして猿嘯えんしょう哀し
渚清沙白鳥飛廻   渚清く 沙すな白くして鳥とり飛び廻る
無辺落木蕭蕭下   無辺むへんの落木 蕭蕭しょうしょうとして下り
不尽長江滾滾来   不尽ふじんの長江 滾滾こんこんとして来たる
万里悲秋常作客   万里 悲秋ひしゅう 常に客かくと作
百年多病独登台   百年 多病たへい 独り台だいに登る
艱難苦恨繁霜鬢   艱難かんなんはなはだ恨む 繁霜はんそうの鬢
潦倒新停濁酒杯   潦倒ろうとう 新たに停とどむ 濁酒だくしゅの杯
風は激しく 空は高く晴れて猿の啼き声は哀しく響く
見おろすと 渚は清く白砂の岸辺の上を鳥が舞う
枯葉は 蕭々と果てしなく落ち
長江は 滾々と流れてつきない
旅人となって 万里 悲憤の秋をさすらい
持病をかかえ ひとり高台に登る
艱難のために 鬢の白髪もめっきりふえ
投げやりに思う心の一方で 好きなお酒もやめている

 このころ作られた七言律詩「登高」とうこうは、杜甫の数ある詩のなかでも最高の傑作とされています。この詩はもともと「九日五首 其五」であったものを、あまりに素晴らしい詩であったために、後世の人が「登高」と題して独立させたものとされています。「九日」はもちろん九月九日、重陽の節句のことです。
 杜甫は大暦二年に夔州で二度目の秋を迎え、孤独の影は濃厚であることが窺われます。この詩が古今の七言律詩中第一の作品とされてのは「八句全対格」はっくぜんついかくで作られている点です。つまりすべての句が対句表現で構成され、しかも声律、押韻のすべてが律詩の規則通りに作られ、そうした厳格な制約のなかで詩人の悲痛な心情があますところなく表現されているからです。
 言葉にも分かりにくい部分はなく、唯一むづかしいのは「潦倒」でしょう。
 おちぶれたさま、投げやりな気分をいう語で、どうでもいいやと心では思いながら、好きな酒もやめるなどして養生もしているというのです。

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