白 露         白 露    杜 甫
白露団甘子     白露はくろ 甘子かんしに団まどかなり
清晨散馬蹄     清晨せいしん 馬蹄ばていを散ず
圃開連石樹     圃は開く 石に連なるの樹
船渡入江渓     船は渡る 江こうに入るの渓たに
凭几看魚楽     几に凭って 魚楽ぎょらくを看
回鞭急鳥棲     鞭むちを回らせば 鳥棲ちょうせい急なり
漸知秋実美     漸く知る 秋実しゅうじつの美なるを
幽径恐多蹊     幽径ゆうけい 恐らくは蹊こみち多からん
蜜柑の実に 白露がまるく宿るころ
清らかな朝 馬に乗って見まわりに出る
石垣の上に 圃場の果樹がつらなり
長江に注ぐ流れを 船は進んでゆく
肘掛けにもたれて 楽しげに泳ぐ魚を眺め
帰ろうと鞭を上げると 鳥たちも慌てて帰ってゆく
今年の秋は実りがよいと 実感がわいてきた
静かな小径にたくさんの 足跡径(あしあとみち)が残るであろう

 杜観はやがて元気な姿をみせ、しばらく杜甫のもとに滞在したあと、藍田らんでん(陝西省藍田県)に預けておいた妻を迎えるために、いったん北へもどります。その年の春、杜甫は瀼西の西閣から白帝城の北にある赤甲山の麓に移りました。しかし、暮春の三月に柏茂琳が四十畝ムー(二四〇アール)の柑橘園を提供しましたので、再び瀼西の西閣にもどってきました。
 白帝城に近い瀼東の東屯には公田も貸してもらっており、杜観が来たころには杜甫はいくらか余裕のある生活をしていたでしょう。
 初秋になって白露節(陽暦九月七日ごろ)のころ、果樹園の蜜柑の実に白く輝く露が宿るようになりました。
 五言律詩のこの詩には、農園を見まわりにゆく杜甫の朝から夕方までと、加えてその後の予測、杜甫らしい優しい想像まで盛り込んであります。
 結びの「幽径 恐らくは蹊多からん」は『史記』李将軍列伝にある論賛を踏まえるもので、貧しくて果実のほしい者が熟れた実を取りに来て、樹下には自然に小径ができるであろうというのです。


  負薪行         負薪行    杜 甫
   夔州処女髪半華   夔州の処女 髪 半なかば華なり
   四十五十無夫家   四十五十にして夫家ふか無し
   更遭喪乱嫁不售   更に喪乱そうらんに遭うて 嫁れず
   一生抱恨長咨嗟   一生 恨みを抱いて長とこしえに咨嗟しさ
   土風坐男使女立   土風 男だんを坐せしめ 女じょをして立たしむ
   男当門戸女出入   男は門戸に当たり 女は出入しゅつにゅう
   十猶八九負薪帰   十猶ゆう八九は 薪たきぎを負うて帰り
   売薪得銭応供給   薪を売り 銭ぜにを得て 供給に応ず
夔州の生娘は 白髪まじりが多い
四十五十になっても 夫がいない
加えてこの乱世では 嫁入りしたくても貰い手がなく
一生 恨みを抱いて 嘆きのため息をついている
土地の風俗では 男を坐らせ女が立ち働く
男は家をまもり 女が外へ出かける
十人に八九人は 薪を背負って帰り
薪を売った金で 暮らしを立てている

 夔州での杜甫は、多作であると同時に多岐にわたる作品を作っていて、土地の人々の生活についても多くの詩を残しています。
 それらのなかには、夔州の少数民族の風俗習慣が漢族とは違うことを詠うものもあります。唐代に夔州方面に住んでいた少数民族のその後は不明ですが、特に女性が働き手で山から薪を切り出し、それを市場で売って生計を立てていることに注目しています。

   至老双鬢只垂頚   老ろうに至るも 双鬢そうびん 只だ頚くびに垂れ
   野花山葉銀釵並   野花やか 山葉さんよう 銀釵ぎんさい並ぶ
   筋力登危集市門   筋力きんりょく 危きに登って市門しもんに集まり
   死生射利兼塩井   死生しせい 利を射て塩井えんせいを兼
   面妝首飾雑啼痕   面妝めんしょう 首飾 啼痕ていこんを雑まじ
   地褊衣寒困石根   地褊ちへんに 衣寒くして石根せきこんに困くるしむ
   若道巫山女麤醜   若し巫山の女じょは麤醜そしゅうなりと道わば
   何得北有昭君村   何ぞ北に昭君村しょうくんそん有るを得んや
老年になっても 左右の髷を首筋に垂れ
野の花や山の木の葉が 銀の簪と並んでいる
体力に任せて山に登り 市場に持ってゆき
利益のために命をかけ 塩の取れる井戸にも出かける
化粧にも 髪飾りにも 涙の痕がにじみ
土地は狭く衣類は薄く 岩陰で困窮している
だが 巫山の女たちが みにくいと言うのなら
すぐ北に 王昭君の村があるはずはないだろう

 杜甫は少数民族の暮らしを詳しく観察して、生活が苦しく困窮していることを見逃していません。当時、漢族の知識人は少数民族を自分たちとは違う文化の所有者として無視するか、言葉も分からないと言って嫌悪するのが普通でした。そして最後に杜甫は、彼女たちは醜い女ではないと同情のひとことを加えます。それはすぐ北に王昭君の生まれた村があり、王昭君は絶世の美女であったので、生活に困窮してさえいなかったら、彼女たちは美しいであろうと詠っています。

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