閣 夜          閣 夜     杜 甫
歳暮陰陽催短景   歳暮さいぼ 陰陽いんよう 短景たんけいを催し
天涯霜雪霽寒霄   天涯てんがい 霜雪そうせつ 寒霄かんしょう
五更鼓角声悲壮   五更ごこう 鼓角こかくこえ悲壮
三峡星河影動揺   三峡の星河せいが 影動揺
野哭千家聞戦伐   野哭やこく 千家せんか 戦伐せんばつを聞き
夷歌幾処起魚樵   夷歌いか 幾処いくしょか 魚樵ぎょしょうに起こる
臥龍躍馬終黄土   臥龍がりゅう 躍馬やくばついに黄土
人事音書漫寂寥   人事 音書いんしょそぞろに寂寥じゃくりょう
今年も暮れて 陰陽は短い日をさらに短くし
最果ての地に 霜や雪が降り寒空は晴れている
夜明けの太鼓や角笛は 悲壮に鳴りわたり
三峡の天の川は またたいて揺れ動く
家々の弔う声は 戦場のように野原に満ちて
漁師や樵の歌が どこからともなく聞こえてくる
孔明も公孫述も 結局は黄土の土と化し
この世の事も友の便りも ただ寂しさを募らせる

 秋が過ぎて大暦元年の冬十月、夔州刺史の柏茂琳が夔州都督を兼ねることになりました。杜甫は柏茂琳の客分として瀼西の西閣に住み、ときには都督府に出掛けて文章の草槁を作成したり、書簡の代筆をしたりしていました。
 柏茂琳としては時間に束縛のない仕事を与えて、杜甫になにがしかの収入をもたらすようにしたのでしょうが、そうした雑文を書く仕事は杜甫の好むものではなかったようです。杜甫はこの年、後世に残る多くの作品を生み出しながら、無為に過ごした一年であったという気持ちしか抱きませんでした。
 詩題の「閣夜」かくやというのは西閣の夜という意味で、夔州に来て一年目の暮れに近いある夜の感懐でしょう。中四句を前後の二句で挟む形式の七言律詩で、杜甫は眠られない冬の夜を過ごし「五更」(夜明け)の鼓角の音を耳にします。
 そんななか、どこからともなく地もとの少数民族の漁り歌や樵歌が聞こえてきます。なんとも寂しいもの音です。尾聯の「臥龍」は諸葛孔明、「躍馬」は後漢建国のころの公孫述のことで、二人とも蜀の英雄でした。
 そうした人物もみんな死んでしまい、「人事」(この世の事)も「音書」(書信)も、ただ寂しいだけであると結びます。
 杜甫に希望を抱かせるようなものは何もないのです。


   立 春          立 春      杜 甫
   春日春盤細生菜   春日しゅんじつ 春盤 生菜せいさいこまやかなり
   忽憶両京梅発時   忽ち憶う 両京りょうけい 梅発ひらく時
   盤出高門行白玉   盤ばんは高門を出でて白玉はくぎょく行き
   菜伝纎手送青糸   菜さいは纎手せんしゅに伝えて青糸せいしを送る
   巫峡寒江那対眼   巫峡ふきょうの寒江 那なんぞ眼まなこに対せん
   杜陵遠客不勝悲   杜陵とりょうの遠客 悲しみに勝えず
   此身未知帰定処   此の身 未だ帰定きていする処を知らず
   呼児覓紙一題詩   児を呼び紙を覓もとめて一すこしく詩を題す
立春の祝いの皿に 生の野菜が刻んである
みるやたちまち 都の梅の開花を想い出す
貴門の皿は 玉のように上等で
細い手が 糸のような野菜を運ぶ
巫峡の寒々とした流れ どうして眺めていられよう
杜陵の旅人の悲しみは 堪えがたいほどに深い
身の落ち着く先は いまだ定まらず
紙を子供に運ばせて 少しばかりの詩を書いた

 柏茂琳の配慮によって、杜甫はいくらか安定した生計のもとで大暦二年(七六七)の新年を迎えました。中国では陰暦正月、立春の日に生の野菜を細かく刻んで食べる習慣がありました。その「春盤」(立春の祝いの大皿)をみて、杜甫は「両京」、つまり長安と洛陽の梅の開花を思い出します。
 貴富の家の侍女が細い手で「生菜」を運ぶ姿を思い出しますが、思いはすぐに現実にもどります。目の前を流れる巫峡の流れは見るに耐えないほど寒々としており、「杜陵の遠客」は杜甫自身にほかなりません。
 結びの一句「児を呼び紙を覓めて一く詩を題す」は、読む者の涙を流さずにはいられません。杜甫の自嘲と言ってしまえばそれまでですが、なんともせつない人生の悲哀が伝わってきます。

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