青 糸          青 糸    杜 甫
   青糸白馬誰家子  青糸せいし 白馬 誰が家の子ぞ
   麄豪且逐風塵起  麄豪そごう且つ風塵ふうじんを逐いて起こる
   不聞漢主放妃嬪  聞かずや 漢主かんしゅの妃嬪ひひんを放ちて
   近静潼関掃蜂蟻  近ごろ潼関を静めて蜂蟻(ほうぎ)(はら)いしことを
   殿前兵馬破汝時  殿前でんぜんの兵馬 汝を破らむ時
   十月即為虀粉期  十月 即ち虀粉せいふんの期と為さむ
   不如面縛帰金闕  如かず 面縛めんばくして金闕に帰せむには
   万一皇恩下玉墀  万一皇恩こうおん玉墀ぎょくちより下らむ
青糸の手綱 白馬に乗るのはどこの誰だ
粗豪の者が 風塵に乗じてのし上がる
聞いていないのか 天子が宮女を解放され
近くは潼関を攻め 賊徒を払いのけられた
殿前の兵馬が やがて汝を打ち破る
それは十月 汝が粉々になるときだ
それよりも 帰参して降服したならば
天子のお許しがあるかもしれない
 「青糸白馬」は南朝梁の叛臣侯景こうけいが青い手綱の白馬に乗って兵を挙げたことを指し、叛臣、つまりここでは撲固懐恩ぼくこかいおんのことを指しています。
 撲固懐恩は永泰元年(七六五)に兵を率いて長安に攻め上ってきましたが、その途中、九月に陣中で病没していました。
 叛乱は挫折したのですが、その報せはまだ雲安には届いていなかったらしく、杜甫は十月には粉砕されるであろうと詠っています。
 この年の閏九月には蜀でも兵乱が起きていました。漢州刺史の崔旰さいかんが叛して、西川節度使の郭英乂かくえいかいを攻めました。
 厳武がいなくなったらすぐに兵乱だと、杜甫はおおいに憤慨するのです。
 遣 憤         憤を遣る  杜 甫
聞道花門将   聞道きくならく 花門かもんの将
論功未尽帰   功を論じて未だ尽ことごとく帰らずと
自従収帝里   帝里ていりを収めしより
誰復総戎機   誰か復た戎機じゅうきを総ぶる
蜂蠆終懐毒   蜂蠆ほうたいついに毒を懐いだくも
雷霆可震威   雷霆らいてい 威を震ふるう可し
莫令鞭血地   鞭血べんけつの地をして
再湿漢臣衣   再び漢臣の衣ころもを湿うるおさしむること莫なか
聞けば 回鶻の将たちは
功賞を論じて帰らずにいるそうだ
賊徒から 都を取りもどして以来
誰が軍権を統べているのか
蜂や蠍さそりは 毒を持っていて当然だが
朝廷は 雷神の威を振るうべきである
回鶻に鞭を打たれて 廷臣の血が
再びながれるようなことがあってはならぬ

 安史の乱が終わっても、唐の政事はいっこうに安定しませんでした。
 それは朝廷に権威がないからだと杜甫はいきどおります。
 このころ唐の軍権を握っていたのは宦官の魚朝恩ぎょちょうおんでした。
 魚朝恩は安史の乱のとき観軍容宣慰処置使に任ぜられて陝州せんしゅう(河南省陝県)にいたとき、河北の前線から敗走してきた神策軍を掌握して陝州に駐屯していました。そこに広徳元年(七六四)十月に吐蕃の長安侵入があり、代宗は都を出て陝州に避難してきました。代宗は翌年になって魚朝恩の神策軍に護られて長安に帰還しましたので、以来、神策軍が従来の北衙禁軍ほくがきんぐんに代わって皇居を守る役目についたのです。
 杜甫が詩中で「誰か復た戎機を総ぶる」と言っているのはこのことで、宦官が禁衛軍を統率するなど、杜甫にとっては言語道断のことでした。
 「蜀を去る」の詩で「安危には大臣あり 必ずしも涙長に流れしめず」と詠っていても、杜甫の憂国の情はとどめようとしても止まらないのです。

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