去 蜀         蜀を去る    杜 甫
五載客蜀郡     五載ごさい 蜀郡しょくぐんに客たり
一年居梓州     一年 梓州ししゅうに居る
如何関塞阻     如何いかんぞ関塞かんさいに阻はばまるる
転作瀟湘遊     転じて瀟湘しょうしょうの遊びを作さん
万事已黄髪     万事 已に黄髪こうはつ
残生随白鷗     残生 白鷗はくおうに随したがわん
安危大臣在     安危あんきには大臣在り
不必涙長流     必ずしも涙なんだとこしえに流れしめず
五か年間 蜀郡を旅し
一か年は 梓州で暮らした
どうしていつまでも関塞に閉じ込められているのか
これからは瀟湘の間に遊ぼうと思う
頭髪が黄色になっては 万事終わり
残りの人生は 鷗のように自由でありたい
国家の大事については 大臣がいる
吾が輩がいつまでも涙をながすこともないだろう

 翌永泰元年(七六五)の正月休みに、杜甫は浣花渓の草堂にもどりますが、そのまま出仕せず、節度参謀の職を辞してしまいました。
 厳武は杜甫の辞職を認め、杜甫の草堂暮らしはしばらくつづくかと思われましたが、四月になると厳武が四十歳の若さで急死してしまいました。蜀州の刺史であった友人の高適こうせきも、このときすでに都に転任し、正月に長安で亡くなっていました。
 杜甫は一度に二人の有力な保護者を失うことになったのです。
 厳武の死によって成都にとどまる理由をなくした杜甫は、はじめの計画通り、長江から江漢の地に出て郷里をめざすことにしました。
 夏五月、杜甫は一家をあげて草堂を去り、錦江の渡津万里橋のたもとから船出をすることになりました。
 蜀を去るに当たって、杜甫は「転じて瀟湘の遊びを作さん」と詠っていますが、あくまで故郷に向かうのが本心です。
 途中、洞庭湖や瀟湘の地方を見物してゆく気はあったかもしれませんが、瀟湘見物のために船出をするような言い方をしているのは、広々とした自由の天地で生きようという気持ちの詩的表現であると見ることもできます。「残生 白鷗に随わん」と余裕の心境を述べていますが、これは去る者の強がりとも受け取れますし、また残りの人生を鷗のように自由に生きたいと言っているのかもしれません。
 結びの二句では、国家の大事については大臣がいるのだから自分がいつまでも心配することはなかろうと、政事への関心を捨てたような発言をしています。これは注目すべき発言です。


 旅夜書懐       旅夜 懐いを書す 杜 甫
細草微風岸     細草さいそう 微風びふうの岸
危墻独夜舟     危墻きしょう 独夜どくやの舟
星垂平野闊     星垂れて平野闊ひろ
月湧大江流     月湧いて大江たいこう流る
名豈文章著     名は豈に文章もて著あらわさんや
官応老病休     官は応まさに老病にて休むべし
飄飄何所似     飄飄 何の似たる所ぞ
天地一沙鷗     天地 一沙鷗いちさおう
そよ風が 岸辺の草の葉にそよぎ
寄る辺ない小舟で ひとり目ざめている
ひろがる野原に 星は低くたれさがり
月の光は波に揺れ 大河はどこまでも流れてゆく
男子の名誉は どうして詩文によって顕せよう
ところが私は 老いと病で官職も辞した
漂泊の身を 何にたとえたらよかろうか
浜にたたずむ一羽の鷗 天地の間をさまよっている

 舟は錦江を下って岷江の本流に出、やがて嘉州(四川省楽山市)に着きます。嘉州では従兄の家にしばらく滞在し、五月末には戎州(四川省宜賓市)に着きます。ここから長江の本流に入るのですが、当時は岷江が長江の本流と思われていましたので、別段の感慨はなかったでしょう。戎州では楊刺史の招宴を受け、そこから渝州(四川省重慶市)へ向かうのです。渝州では北から嘉陵江が合流していますので、長江は水量を増すのですが、すぐに山間にさしかかりますので、流れは急になるでしょう。掲げた詩は渝州から忠州(四川省忠県)に至る船中の作とされています。前半の四句では簡潔な対句を用いて、天地の間に投げ出されている者の孤独を巧みに表現しています。
 後半の四句で「名は豈に文章もて著さんや」と、杜甫は自己の人生の在り方に疑念を呈しています。当時は文名が高くても、官職がなければ男子の名誉とはなりませんでした。
 そのうえ杜甫は生前において、さほど有名な詩人ではなかったのです。結びの二句「飄飄 何の似たる所ぞ 天地 一沙鷗」は杜甫の心境を描いて見事です。

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