春 日            春 日      秦 観
一夕軽雷落万糸   一夕(いっせき)軽雷(けいらい) 万糸(ばんし)落つ
霽光浮瓦碧参差   霽光(せいこう) 瓦に浮かび (みどり)参差(さんし)たり
有情芍薬含春涙   情有る芍薬(しゃくやく)春涙(しゅんるい)を含み
無力薔薇臥曉枝   力無き薔薇(しょうび)(あかつき)の枝に臥す
昨夜は弱い雷が鳴り 小糠雨が降った
雨後の光は甍に映え 瑠璃の色は波うっている
芍薬は 春の愁いに涙ぐみ
野茨は 枝にからんで朝に咲く

 秦観(しんかん)は仁宗の皇祐元年(一〇四九)に生まれました。
 蘇軾よりも十三歳の年少です。若くして詩才を蘇軾に認められ、神宗の元豊八年(一〇八五)に三十七歳で進士に及第しました。
 この年は神宗が崩じ哲宗が即位して宣仁太皇太后高氏の摂政政事がはじまる年なので、旧法党が勢力を盛り返します。
 秦観は太学博士に任ぜられ、秘書省正字になりますが、旧法党の一員とみなされ、新法党が勢力を取りもどすと、左遷されます。
 秦観には唐末の詩人のような都雅な感覚があり、「春日」のような繊細な詩を作っています。「参差(さんし)」は瓦の碧色が長短高低揃っていないことをいい、「薔薇(しょうび)」は現代のバラではなく野茨(のいばら)のことです。


 夜発分寧寄杜澗叟   夜 分寧を発し杜澗叟に寄す 黄庭堅
陽関一曲水東流    陽関の一曲 水は東に流れ
燈火旌陽一釣舟    灯火 旌陽 一釣舟(いちちょうしゅう)
我自只如常日酔    我れ自ら只だ常日(じょうじつ)()の如し
満川風月替人愁    満川(まんせん)の風月 人に替って愁う
陽関の(うた)に見送られ 小さな舟に身を託す
故郷の山よ ともしびよ 水は東へ流れゆく
酔っぱらっているのは いつものこと
川一杯の風 月あかり わたしのかわりに愁えている

 黄庭堅(こうていけん)は仁宗の慶暦五年(一〇四五)に洪州分寧(江西省修水県)に生まれました。蘇軾よりも九歳の年少で秦観よりすこし年長です。
 英宗の治平四年(一〇六七)に二十三歳で進士に及第し、国子監教授、校書郎、秘書丞兼国史編修官を歴任しましたが、その後は新法党・旧法党の争いに巻き込まれ浮沈の多い官途をたどりました。
 若いころから蘇軾の知遇を得、後に江西詩派という宋代詩の一派を打ち立てます。詩は神宗の元豊六年(一〇八三)に故郷の分寧を発つときの作で、三十九歳のときの詩です。すでに王安石は隠退していましたが、新法党が政権を掌握していたころですので、黄庭堅は一時故郷に帰っていたのでしょう。
 「陽関一曲」は王維の「送元二使安西」をさし、送別の詩として楽に乗せて歌われていました。
 「旌陽(せいよう)」は分寧の東郊にある山で故郷を象徴する山でしょう。
 このとき黄庭堅は不遇な立場にいましたので、「如常日酔」と自嘲してみせ、清風と明月が自分の代わりに愁えていると詩化しています。
 杜澗叟(とかんそう)は不明ですが故郷の友人で見送りに来ていたのでしょう。

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