送舎弟頴赴斉州 三首 其一
  舎弟頴の斉州に赴くを送る 三首 其の一 杜 甫
岷嶺南蛮北     岷嶺びんれいは南蛮なんばんの北
徐関東海西     徐関じょかんは東海とうかいの西
此行何日到     此の行こうなんの日か到らん
送汝万行啼     汝を送りて万行ばんこう
絶域唯高枕     絶域ぜついきに唯だ枕を高うし
清風独杖藜     清風せいふうに独り藜あかざを杖つえつ
危時暫相見     危時きじに暫しばらく相い見かい
衰白意都迷     衰白すいはくは都すべて迷う
ここは南蛮の北 岷山の麓
彼方は東海の西 徐関の地
この旅を 幾日かけてたどるのか
そなたを見送って 涙は流れとまらない
遠い果ての地で 私は安らかな眠りの日々
すずかぜに独り 藜の杖をついている
危険な時期に しばし会うことができたが
白髪頭の老いぼれは どうしていいかわからないのだ

 徒食している杜甫をみかねたのか、六月になると杜甫は厳武の辟召へきしょうを受け、節度参謀・検校工部員外郎(従六品上)に任ぜられました。
 辟召というのは節度使による独自の任用で、任用後、中央に申請して寄禄官を与えられます。杜甫の検校工部員外郎というのは寄禄官で、工部員外郎相当の給与を支給することを意味します。節度使の幕職文官としては、副使・判官・掌書記・推官・巡官があり、参謀は見当たりません。
 だから杜甫は、自由な立場で政事に参与する顧問のような立場であったのでしょう。厳武が杜甫に食禄を与えるために、特別の措置を採ったものと思われます。任官してほどない広徳二年の秋に、斉州(山東省済南市)の弟杜頴とえいがはるばる成都まで訪ねて来ました。
 杜頴は異母弟ですが、年齢は杜甫とあまり違いません。すぐ下の弟です。
 若いころから斉州管下の県の属官をしていて、会うのは久しぶりです。
 任官した杜甫は成都の官舎に移っていましたので、官舎で弟を迎えることができました。杜頴は幾日か滞在したあと斉州にもどって行きましたが、詩は送別のときのものです。詩のようすからすると、杜頴は生活上のことで杜甫に頼みごとがあって来たようです。
 しかし、無力な杜甫は弟を手助けすることができませんでした。
 結びの「衰白 意は都すべて迷う」という言葉が、杜甫の苦しい胸のうちを示していると思います。


   奉和厳大夫軍城早秋 厳大夫の「軍城早秋」に和し奉る 杜 甫

   秋風嫋嫋動高旌   秋風嫋嫋じょうじょうとして高旌こうせいを動かす
   玉帳分弓射虜営   玉帳ぎょくちょう 弓を分かって虜営りょえいを射る
   已収滴博雲間戍   已に滴博てきはく 雲間うんかんの戍じゅを収む
   更奪蓬婆雪外城   更に奪わん 蓬婆ほうば 雪外せつがいの城
嫋々と吹く秋風が かかげた旗を翻す
大将軍の陣営は 手にした弓で夷狄を射る
雲間に聳える滴博嶺 塞とりではすでにわが手にあり
雪山の彼方の蓬婆嶺 聳える城をつぎに奪おう

 蜀の西境は吐蕃の勢力圏と接しており、現在の四川省西北高地は吐蕃の領域でした。そのころ吐蕃の兵は成都の西北一二〇㌔㍍のあたりまで迫っており、唐側の三城が奪われました。
 そこで厳武は九月になると成都の兵を発し、西北に吐蕃を攻めました。
 吐蕃兵七万を撃退し、維州(四川省汶川県付近)東北の当狗城とうくじょうなどを奪回しました。
 杜甫もこの戦に参加し、厳武の詩「軍城早秋」に応える詩を書いています。
 杜甫の戦の詩は珍しいものです。
 詩中の「滴博」と「蓬婆」は四川省の北にある山で、杜甫は「雪山」を越えてさらに前進しましょうと、勇ましく応じています。

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