竹林は寒々として 砂は碧の浣花渓
刺枝や蔓が生い茂り すぐ近くでも迷ってしまう
来客も 出入りするのに困るであろう
住んでいる私でさえ 方角もわからぬほどだ
付箋も薬袋も 蜘蛛の巣だらけのあばらやに
野中の小屋や丸木橋 たどりながら来てくださる
荒れた庭にも春の草 その青色を敷き物に
まずは一杯 へべれけになるまで酔いましょう
梓州に身を寄せていた宝応元年(七六二)の七月から一年九か月ほどのあいだ、杜甫は涪江沿いの城市を歩きまわっています。
多分、生活の資を得るためでしょう。売文の生活です。
広徳元年(七六三)の秋か冬に、杜甫は京兆府の功曹参軍に任ずるという辞令を受け取っています。このころ厳武は京兆尹になっていましたので、その推薦によるものでしょう。しかし杜甫は、それを辞退しています。
杜甫としては、いまさら府州の属官などにはなりたくないという思いがあったのではないでしょうか。この年の暮に、杜甫は梓州で州刺史らの盛大な見送りを受け、翌広徳二年の初春に妻子を伴なって閬州(四川省閬中県に)移りました。
閬州ろうしゅうは嘉陵江の渡津で、ここから船出して長江に出、故郷にもどるつもりであったと思われます。ところが杜甫はなかなか出発しようとせず、閬州で無駄な時間を過ごしていました。そこに厳武が再び剣南両川節度使兼成都尹になって、成都に赴任してくるという報せが届きました。
杜甫は報せを聞くと、すぐに東帰をやめ、成都にもどることにしました。
詩は成都に向かう途中から厳武に贈ったもので、草堂の荒れた様子に思いをはせていますが、いかにも楽しそうな口調です。「肯て荒庭の春草の色を藉いて」一杯飲みましょうと、交遊の楽しみに胸をふくらませています。
川岸の砂が崩れて 薬園の囲いはいつも壊れ
岸辺の欄干に 飛沫がかかるのも放っておいた
植えた松は 千尺ほどに伸びてはいまい
はびこる竹は 万本ほども切らねばなるまい
生活のことは 黄門閣下におすがりし
老いた顔は 紫金丹の効き目にまかせよう
この三年 無駄に月日を費やして骨と皮になり果てた
まことに世間には 行路難というものがある
其の四の詩も、其の三の詩と同じく荒れた草堂のようすを思いやるものですが、後半の四句では「生理は祗だ黄閣の老に憑り」とあるように、生活のことは厳武が頼りであると述べています。
厳武のことを詩題では「鄭公」ていこうといい、詩中では「黄閣の老」と言っているのは、厳武が門下省の黄門侍郎(正四品上)で、鄭国公の称号を得ていたからです。節度使は令外の官ですので、寄禄官として黄門侍郎の職事官が与えられ、職事官相当の俸給が給される仕組みになっていました。