茅屋為秋風所破歌  茅屋 秋風の破る所と為るの歌 杜 甫
  八月秋高風怒号     八月 秋高くして風は怒号どごう
  巻我屋上三重茅     我が屋上の三重さんちょうの茅かやを巻く
  茅飛度江灑江郊     茅は飛んで江を度わたり 江郊こうこうに灑そそ
  高者掛罥長林梢     高き者は長林ちょうりんの梢に掛罥かいけん
  下者飄転沈塘坳     下ひくき者は飄転ひょうてんして塘坳とうおうに沈む
  南村群童欺我老無力 南村(なんそん)の群童 我が老いて力無きを(あなど)
  忍能対面為盗賊     忍んで能く対面して盗賊を為
  公然抱茅入竹去     公然 茅を抱いだきて竹に入りて去る
  脣焦口燥呼不得     脣は焦げ 口は燥かわき 呼べども得ず
  帰来倚杖自嘆息     帰り来たり 杖に倚って自おのずから嘆息す
八月 秋の空は高く 風は唸りをあげ
三重の茅の屋根を巻き上げる
川を飛び越えて 岸辺に落ち
高く飛んだ茅は 林の梢にかかり
低く飛んだ茅は 転がって溜め池に沈む
南の村の悪童は 老人の無力をあなどり
むごいことにも 面と向かって盗みをはたらき
堂々と茅をかかえて 竹やぶに逃げる
大声をあげ 声をからして叫ぶが効き目はなく
あきらめて 杖に寄りかかって溜め息をつく

 上元二年(七六一)の春三月、大燕皇帝史思明は後嗣のもつれから息子の史朝義しちょうぎに殺されました。
 賊の内紛は攻撃のチャンスですが、唐朝の側も問題をかかえていました。
 地方に対する政府の統制がゆるんでいたのです。
 この年の夏四月、梓州ししゅう(四川省三台県)の刺史段子璋だんししょうが叛乱を起こし、東川節度使を追い払って独立のかまえをみせました。
 西川節度使・成都尹の崔光遠さいこうえんは武将の花敬定かけいていを討伐に差し向け、花敬定は段子璋を斬って叛乱を鎮めました。しかし今度は、花敬定自身が現地で略奪を働くようになり、東川地域は大いに乱れました。
 乱は西川地域の成都に及ぶものではありませんでしたが、秋八月になって暴風雨が成都を襲いました。
 詩のはじめの十句は、風が杜甫の草堂の茅葺き屋根を吹き飛ばし、飛ばされた茅は村の悪童に持ち去られて茫然としているさまです。

   俄頃風定雲墨色  俄頃がけい 風定まって雲は墨色ぼくしょく
   秋天漠漠向昏黒  秋天しゅうてん 漠漠として昏黒こんこくに向かう
   布衾多年冷似鉄  布衾ふきん 多年 冷やかなること鉄に似たり
   驕児悪臥踏裏裂  驕児きょうじ 悪臥あくがして裏を踏んで裂く
   牀頭屋漏無乾処  牀頭しょうとうおく漏りて乾処かんしょ無く
   雨脚如麻未断絶  雨脚うきゃく 麻の如くにして未だ断絶せず
   自経喪乱少睡眠  喪乱そうらんを経て自り睡眠少なく
   長夜沾湿何由徹  長夜ちょうや 沾湿てんしつ 何に由ってか徹せん
やがて風は収まり 雲は墨を流したように黒く
秋空は次第に暮れ 夕闇がせまる
布団は使い古して 鉄板のように冷たく
息子らは寝相が悪く 裏地を踏み破っている
枕元は雨漏りして 乾いたところがなく
雨は麻糸のように 降りつづいて止みそうもない
乱世になって 寝不足がつづいているのに
秋の夜長を 濡れたままで明かされようか

 中八句で杜甫は、暴風雨が去った後の草堂のようすを詳しく描きます。まだ小雨が降りつづいており、小屋はいたるところ雨漏りで、枕元まで濡れています。乱世になって寝不足がつづいているのに暴風雨までが襲い、このありさまだと嘆くのです。

安得広廈千万間    安いずくにか広廈こうかの千万間せんばんげんなるを得て
大庇天下寒士倶歓顔 大いに天下の寒士を(おお)いて 倶に(かんばせ)を歓ばしめ
風雨不動安如山    風雨ふううにも動かず 安らかなること山の如くなるを
嗚呼            嗚呼
何時眼前突兀見此屋 何れの時か眼前に突兀とつこつとして此の屋おくを見ば
吾廬独破受凍死亦足 吾が廬は独り破れて凍を受け死すとも亦た足れり
どうにかして 千間万間もの邸宅を手に入れ
天下の貧乏人を収容して 歓び合いたいものだ
風雨にも動かず 山のようにどっしりしている
そんな家が いつの日か眼前に聳え立つならば
わが家は破れて 凍え死んでもしまっても満足だ

 この七言古詩は、七言より多い句を含んでおり、几帳面な杜甫としては珍しいことです。
 即興的に作り、また七言では納まりきれないものがあったのでしょう。
 最後の五句では、杜甫は一転して「天下寒士」に思いを致します。
 自分の不幸を他人と結びつけ、他の不幸をおもいやる。杜甫の人間味のある部分が示されている詩として、しばしば引用される部分です。

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