江 亭         江 亭     杜 甫
坦腹江亭暖     坦腹たんぷくす 江亭こうていの暖かなるに
長吟野望時     長吟ちょうぎん 野望やぼうの時
水流心不競     水流れて心は競きそわず
雲在意倶遅     雲在りて意は倶ともに遅し
寂寂春将晩     寂寂せきせきとして 春 将まさに晩れんとし
欣欣物自私     欣欣きんきんとして 物 自みずから私わたくし
故林帰未得     故林こりん 帰ること未いまだ得ず
排悶強裁詩     悶もだえを排して強いて詩を裁さい
川辺の東屋の 暖かいところに寝そべって
詩を吟じつつ 野原を眺めている時間
水は流れてゆくが 気にするのはやめにしよう
空の雲のように ゆったりした心境でよい
春は今まさに 静かに暮れようとし
生き物たちは みずからの生をいきている
いまだ故里に 帰れないでいるので
悩みを吹き払うように 無理に詩作にはげむのだ

 草堂に客が来ることは滅多にないので、多くは暇な時間です。
 そんなとき杜甫は、川辺に設けた小さな亭で寝そべって過ごします。
 頷聯の「水流れて心は競わず」というのは、『論語』の有名な「川上せんじょうの嘆」(逝く者は斯の如きか。昼夜を舎かず)を踏まえるもので、川の水は流れてゆくが、孔子のようにそれを見て悩むのはやめにしようと言っています。雲は隠者の生活の象徴で、そんなゆったりした生活がよいと、自然の生物がそれぞれの生き方を楽しんでいるのを羨ましがっています。
 杜甫の心はいろいろに揺れ動いているようです。「故林 帰ること未だ得ず」と言っているのは、都で官職につきたい気持ちを暗に言っているのであり、そんな気持ちを吹き払うように無理に詩作に励んでいるというのです。


 春夜喜雨       春夜 雨を喜ぶ  杜 甫
好雨知時節     好雨こうう 時節じせつを知り
当春乃発生     春に当たって乃すなわち発生す
随風潜入夜     風に随したがって潜ひそかに夜に入り
潤物細無声     物を潤うるおして細こまやかにして声無し
野径雲倶黒     野径やけい 雲と倶ともに黒く
江船火独明     江船こうせん 火 独り明らかなり
暁看紅湿処     暁あかつきに紅くれないの湿れる処を看れば
花重錦官城     花は錦官城きんかんじょうに重からん
よい雨は 降るべき時節をわきまえており
春になれば 時期をたがえずに降ってくる
風のまにまに そっと闇夜にまぎれこみ
細やかに音もなく 万物の渇きをいやす
野原の小径は 黒雲におおわれて暗く
川舟の漁火だけが 闇夜に赤く燃えている
明け方の光の中で 紅の濡れたあたりを見れば
花は重たく 錦官城に垂れているだろう

 杜甫は「吾が道」如何にあるべきかについて、いろいろと動揺することもあったようです。そんな悩みを吹き払うように詩作にはげみます。
 そんなとき、杜甫の詩人の魂は鋭く耳を澄まし、自然の計り知れない営みに目を凝らすのでした。詩は万物に恵みをもたらす春の雨が、時間の経過を追って細かく描かれます。
 はじめの四句は家の窓から夜の雨を眺めているのでしょう。
 頷聯の「風に随って潜かに夜に入り 物を潤して細やかにして声無し」の二句には、杜甫の「幽興」の思想が盛り込まれていると見ていいでしょう。
 後半四句のうち頚聯では、杜甫は外出して川岸から夜景を見ています。
 漁火いさりびの紅い火が印象的に描かれています。尾聯の二句では、「暁に紅の湿れる処を看れば 花は錦官城に重からん」と翌朝の雨後の城内を想像していますが、どこか底知れない不安が忍び寄っているのを感じます。

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