乾元中寓居同谷県作歌 七首 其一 杜 甫
          乾元中 同谷県に寓居して作れる歌 七首 其の一
有客有客字子美   客有り 客有り 字あざなは子美しび
白頭乱髪垂過耳   白頭 乱髪 垂れて耳を過ぐ
歳拾橡栗随狙公   歳々(としどし)橡栗(しょうりつ)を拾って狙公(しょこう)に随う
天寒日暮山谷裏   天寒く 日暮るる山谷さんこくの裏うち
中原無書帰不得   中原ちゅうげん 書無くして帰り得ず
手脚凍皴皮肉死   手脚しゅきゃく 凍皴とうしゅん 皮肉ひにく死す
嗚呼一歌兮歌已哀  嗚呼 一歌 歌うたすでに哀し
悲風為我従天来   悲風 我が為に天従り来たる
ここによそ者がいる 字は子美だ
白髪頭のみだれ髪は 耳の下まで垂れている
近ごろ団栗を拾って 狙公の暮らしに習い
寒々とした日暮れの谷間を歩いている
都長安からのお召しがないので帰れず
手足は凍えて皹が切れ 痩せ細っている
ああ一曲の歌を歌えば 歌はすでに悲しく
天が私のために 悲しい風を送ってくる

 秦州での生活がいよいよいきづまってきたとき、杜甫は同谷(甘粛省成県)は豊かで暮らしやすいところだという噂を耳にします。同谷どうこくは秦州の南一二〇㌔㍍ほどのところにある秦州管下の城市です。
 杜甫は冬十月に秦州を発って同谷に向かいます。
 途中の道は険阻で、家族を連れた移動は苦労の連続です。
 しかし、同谷に着いたら、噂はまったくの期待はずれでした。
 折しも冬のさなか、雪の谷間に分け入って橡とちの実を拾ったりして飢えをしのぐありさまです。
 「狙公」は春秋時代の猿使いで、猿に食べさせる団栗どんぐりを節約するために朝夕四つずつであったものを、朝三つ夕四つにしたところ猿が怒り出したので、朝四つ夕三つにしたら猿は喜んで賛成したという話です。
 杜甫はどんな気持ちでこの詩句を書いたのでしょうか。
 この詩で杜甫が「中原 書無くして帰り得ず」と言っているのは注目に値します。杜甫は朝廷からの召喚命令があれば、もどるつもりであったのです。
 だが、それも空望みに過ぎませんでした。
 同谷での生活は困窮を極め、二か月しか滞在できませんでした。十二月一日には同谷を発って蜀に向かいます。


  卜 居           卜 居     杜 甫
   浣花渓水水西頭  浣花渓水かんかけいすい 水の西頭せいとう
   主人為卜林塘幽  主人 為に卜ぼくす林塘りんとうの幽なるを
   已知出郭少塵事  已に知る 郭かくを出でて塵事じんじの少まれなるを
   更有澄江銷客愁  更に澄江ちょうこうの客愁かくしゅうを銷す有り
   無数蜻蜓斉上下  無数の蜻蜓せいていひとしく上下し
   一双鸂鶒対沈浮  一双の鸂鶒けいせき 対して沈浮ちんぷ
   東行万里堪乗興  東行万里 興きょうに乗ずるに堪えたり
   須向山陰入小舟  (すべから)く山陰に向かって小舟(しょうしゅう)に入るべし
浣花渓の清い流れ 西のほとりに
静かな場所を選んで 居を定める
郊外だから 俗事の少ないことはわかっており
澄んだ川が 旅愁を癒してくれる
無数の蜻蛉が 揃って上下に跳び
番いの鴛鴦が 向かい合って浮き沈みする
東行万里 興に乗じて行くこともでき
小舟に乗って 山陰の方まで出かけるべきだ

 一家七人がいつまでも寺院の世話になっていることはできませんので、明けて上元元年(七六〇)の春になると、浣花渓の一角に草堂を営むことになりました。敷地の広さは一畝(一八〇坪)ほどで、世話をしてくれたのは西川節度使成都尹の裴冕はいべんでした。このあたりは成都の中心から四㌔㍍ほど離れた閑静な田園地帯で、草堂は浣花渓(錦江の一部であり、河岸の地名でもある)の西端、百花潭ひゃっかたんの北の岸辺にありました。
 尾聯の二句「東行万里 興に乗ずるに堪えたり 須く山陰に向かって小舟に入るべし」は、山陰(浙江省紹興市)に住んでいた晋の王微之おうびしの故事を踏まえるもので、具体的にどこかへ行くということを意味しているのではありません。閑雅で拘束のない生活を送ることの詩的表現と見るべきです。

目次三へ