秦州雑詩 二十首 其一 秦州雑詩 二十首 其の一 杜 甫
満目悲生事     満目まんもく 生事せいじを悲しむ
因人作遠遊     人に因りて遠遊えんゆうを作
遅廻度隴怯     遅廻ちかいろうを度わたりて怯おび
浩蕩及関愁     浩蕩こうとうかんに及んで愁う
水落魚龍夜     水は落つ 魚龍ぎょりゅうの夜
山空鳥鼠秋     山は空し 鳥鼠ちょうその秋
西征問烽火     西征せいせいして烽火ほうかを問い
心折此淹留     心こころくだけて此ここに淹留えんりゅう
見わたす限り 世は悲しいことばかり
人をたよりに 遠方へ旅をする
隴山を越えるときは 怯えて道ははかどらず
関所にたどり着くと 愁いは増すばかりである
水嵩の落ちた魚龍川の夜
ひとけのない鳥鼠山の秋
西に旅して戦争のようすを聞き
心もくじけて 秦州に留まることにする

 秦州へ向かう杜甫の一行は、妻が杜甫より十歳下の三十八歳、長女は十三歳、長子宗文は十歳、次子宗武は七歳、次女は五歳であったと思われます。ほかに異母弟の杜占が加わっていますので、家族は七人です。
 ほかに使用人として従僕が二人くらいはいたと思われますので、十人の大移動です。杜甫は馬に乗っていたと思いますが、家財を載せた車に小さな子供を同乗させた旅は流民に近い姿であったと思われます。隴山を越える困難の多い旅でしたが、一行は七月中には秦州に着いていました。
 五言律詩の連作「秦州雑詩二十首」は秦州で作った有名な作品です。
 其の一の詩で杜甫は「人に因りて遠遊を作す」と言っており、前途に何らかの成算のある旅ではありませんでした。他人に頼る旅です。
 杜甫ははじめての地「秦州」にやってきましたが、ここでも西方で吐蕃との戦が激しくなっていることを聞き、秦州にとどまることにしました。「心折くだけて」と言っているのは、もっと西へゆくつもりもあったものと思われます。


秦州雑詩 二十首 其二 秦州雑詩 二十首 其の二 杜 甫
秦州城北寺     秦州しんしゅう 城北じょうほくの寺
勝跡隗囂宮     勝跡しょうせき 隗囂かいごうの宮
苔蘚山門古     苔蘚たいせん 山門さんもん
丹青野殿空     丹青たんせい 野殿やでんむな
月明垂葉露     月は葉に垂るる露に明らかに
雲逐渡渓風     雲は渓たにを渡る風を逐
清渭無情極     清渭せいいは無情の極み
愁時独向東     愁時しゅうじ 独り東に向かう
秦州城北に一寺あり
隗囂の宮殿の跡という
山門は苔むして古び
丹塗りのはげた廃殿に 人影はない
月影は葉末の露にきらめき
雲は谷風とともに流れてゆく
清らかな渭水の流れは 無情の極み
憂愁の季節の中 ひとり東へ流れてゆく

 詩中の「隗囂の宮」は、新の王莽おうもう(漢末の纂奪者)のころ、秦州で覇を称えた隗囂の別宮の跡で、麦石山ばくせきざんの北にあったと言われています。
 杜甫は単に梟雄の遺跡を見物したからこの詩を書いたのではなく、滅び去った栄華の跡の荒廃のさまを詠ったものと解されます。
 渭水上流の谷川が東へ向かって流れており、そこには都長安があります。
 そのことに杜甫は、つきせぬ憶いを抱くのです。


秦州雑詩 二十首 其三 秦州雑詩 二十首 其の三 杜 甫
州図領同谷     州しゅうと 同谷どうこくを領りょう
駅道出流沙     駅道えきどう 流沙りゅうさに出
降虜兼千張     降虜こうりょ 千張せんちょうを兼ね
居人有万家     居人きょじん 万家ばんか有り
馬驕朱汗落     馬驕おごりて朱汗しゅかん落ち
胡舞白題斜     胡舞いて白題はくだい斜なり
年少臨洮子     年少ねんしょうの臨洮子りんとうし
西来亦自誇     西より来たりて亦た自ら誇る
秦州の管下に 同谷があり
道は砂漠につらなっている
帰服した胡人の帷とばりは千張もあり
漢人の家は 万戸を数える
駿馬は駆けて 血の汗を流し
胡人は舞って 白い額を傾ける
臨洮の若者たちは西から来て
剽悍の風俗を みずから誇る

 秦州には都督府があり、天水(秦州府)、隴西ろうせい、同谷の三郡を管轄していました。同谷は天水の南にありますが、そこには降服してきた胡人の包(パオ)が集まっており、気風も荒かったようです。杜甫はそうしたことを聞くにつけ、秦州が国境の街であることを痛感します。


秦州雑詩 二十首 其四 秦州雑詩 二十首 其の四 杜 甫
鼓角縁辺郡     鼓角こかく 縁辺えんぺんの郡
川原欲夜時     川原せんげん 夜ならんと欲するの時
秋聴殷地発     秋に聴けば地に殷いんとして発おこ
風散入雲悲     風に散さんじて雲に入りて悲しむ
抱葉寒蝉静     葉を抱いだける寒蝉かんせんは静かに
帰山独鳥遅     山に帰る独鳥どくちょうは遅し
万方声一慨     万方ばんぽう 声は一慨いちがいなり
吾道竟何之     吾が道 竟ついに何いずくにか之かんとする
鼓角の声は 国境の郡に鳴りわたり
川沿の野に 夜の帷とばりが降りようとする時
秋に聞けば 地をどよもして鼓角は鳴り
風に吹かれ 雲間にはいって悲しげに響く
生き残りの蜩ひぐらしは 葉にすがりついて鳴きもせず
山に帰る鳥は のろのろと飛んでゆく
天下いたる所 戦乱の声に覆われ
わが人生は 結局どこへ向かって行くのだろうか

 其の四の詩は「秦州雑詩」のなかで一番有名な詩です。詩は前二、中四、後二の構成になっており、はじめの二句で場所と時が示されます。
 中二聯の対句には、杜甫の深い悲しみが表現されている。
 最後の二句では、天下はどの方向を向いても戦乱を告げる鼓角の声が鳴りひびき、そのなかで「吾が道 竟に何くにか之かんとする」と、自分の人生のゆくへに深刻な不安を感じています。この詩は、杜甫の人生の内的転機を示す重要な詩であると吉川氏は指摘しています。


秦州雑詩二十首其五 秦州雑詩 二十首 其の五 杜 甫
南使宜天馬     南使なんしは天馬に宜よろ
由来万匹強     由来ゆらい 万匹強ばんひつきょう
浮雲連陣没     浮雲ふうんは陣を連ねて没し
秋草徧山長     秋草しゅうそうは山に徧あまねくして長し
聞説真龍種     聞説きくならく 真の龍種りゅうしゅ
仍残老驌霜     仍お老いたる驌霜しゅくそうを残あま
哀鳴思戦闘     哀鳴あいめいして戦闘を思い
迥立向蒼蒼     迥はるかに立ちて蒼蒼そうそうに向かうと
秦州は 天馬を育てるのに適し
これまでに一万匹以上の馬がいた
馬は浮き雲のように戦陣とともに去り
秋草が 山一面に伸びている
聞けば天馬の血統は
老いた駿馬のなかにあるという
駿馬はいなないて 戦闘を思い
はるかに蒼天を仰いで立つという

 「秦州雑詩」二十首は四首ずつの五部構成になっていて、この詩から四首は戦争に関するものです。やはり杜甫の関心は戦乱のゆくえにあります。
 秦州には「南使」(監牧使)が置かれていて、開元年間には四十万頭もの名馬が飼育されていたようです。
 しかし、いまは一頭の馬もいなくなり、秋草が一面に茂っているだけです。
 詩中の「驌霜」は古代の名馬の名で、その血統をひく駿馬が戦争に駆り出されて、哀しそうに嘶きながら、遥か彼方、恐らくは大宛の空を見上げて立っていると杜甫は詠います。


秦州雑詩 二十首 其七 秦州雑詩 二十首 其の七 杜 甫
莽莽万重山     莽莽もうもうたり万重ばんちょうの山
孤城山谷間     孤城 山谷さんこくの間かん
無風雲出塞     風無くして雲は塞とりでを出で
不夜月臨関     夜ならざるに月は関かんに臨む
属国帰何晩     属国 帰ること何ぞ晩おそ
楼蘭斬未還     楼蘭 斬らんとして未だ還かえらず
烟塵独長望     烟塵えんじんに独り長望ちょうぼう
衰颯正摧顔     衰颯すいさつとして正まさに顔かんばせを摧くだ
幾重にもつらなる緑の山
岩の谷間に 秦州の孤城は立っている
風もないのに 雲は塞の底から湧き
夜でもないのに 月は関所を照らしている
属国への使者は なぜに帰りが遅いのか
楼蘭王を斬ろうとしたが まだ帰らない
戦塵のけむる彼方を眺めやり
気力も萎え 顔をしかめるばかりである

 其の七の詩は前半四句で山間にある秦州城の寂しいようすを詠っています。後半四句では属国の匈奴へ使いした蘇武そぶや楼蘭に使者となった傅介子ふかいしが手柄を立てて帰国した故事を暗に示しながら、吐蕃(チベット)との外交交渉がうまく運ばない現状を嘆いています。


秦州雑詩 二十首 其八 秦州雑詩 二十首 其の八 杜 甫
聞道尋源使     聞道きくならく 尋源じんげんの使い
従天此路廻     天従りして此の路より廻かえると
牽牛去幾許     牽牛けんぎゅうは去ること幾許いくばく
宛馬至今来     宛馬えんばは今に至るまで来たる
一望幽燕隔     一望 幽燕ゆうえんへだたる
何時郡国開     何の時にか郡国ぐんこく開けん
東征健児尽     東征とうせい 健児けんじ
羌笛暮吹哀     羌笛きょうてき 暮吹ぼすい哀し
聞けば張騫は 黄河の源を尋ね
この街道を通って天空から帰ってきた
牽牛星からどれほどの距離があるのか
大宛の名馬は 今もそこからやってくる
一望するが 幽州・燕州の路はふさがり
何時になったら郡国への道は開通するのか
東征の健児は出つくしてしまい
羌笛だけが 日暮れに哀しく聞こえてくる

 其の八の詩の前半では、張騫ちょうけんが西域への道を切り開き、大宛だいえんの名馬はいまもその路を通ってもたらされていると功績を称えます。
 後半では、それに反して幽州や燕州への道は賊軍のために塞がれてしまい、いつになったら行けるようになるのかと嘆きます。若者たちは東部戦線に出払ってしまい、聞こえてくるのは羌笛の哀しい音色ばかりです。


秦州雑詩 二十首 其九 秦州雑詩 二十首 其の九 杜 甫
今日明人眼     今日こんじつ 人眼じんがん明かなり
臨池好駅亭     池に臨む好駅亭こうえきてい
叢篁低地碧     叢篁そうこう 地に低れて碧みどり
高柳半天青     高柳こうりゅう 天に半なかばして青し
稠畳多幽事     稠畳ちゅうじょう 幽事ゆうじ多く
喧呼閲使星     喧呼けんこ 使星しせいけみ
老夫如有此     老夫ろうふし此れ有らば
不異在郊坰     郊坰こうけいに在るに異ことならざらむ
今日こそは 寝ぼけ眼をみひらいた
池のかたわら 駅亭の麗しくもよい眺め
竹むらは 地上にたれてみどり色
柳は高く伸びて 中空に青々と茂る
ほかにも 奥床しさは数知れないが
それを使者が やかましく数え立てる
もしも自分が そのような立場なら
別荘にいる境地で眺めるものを

 「秦州雑詩」のうち其の九から其の十二までの四首は、秦州城内のようすや住居のことを詠っています。杜甫もやっと身のまわりを見まわす境地になったのでしょう。其の九の詩では「今日 人眼明かなり」といっているように、今日になって初めて秦州の駅亭の美しさに眼をとどめる余裕ができたのです。
 その奥床しい秦州の街で、なにごとを苛立っているのか、国の役人がやかましく詮議立てしているのを杜甫は批判しています。


秦州雑詩 二十首 其十 秦州雑詩 二十首 其の十 杜 甫
雲気椄崑崙     雲気うんき 崑崙こんろんに椄し
涔涔塞雨繁     涔涔しんしんとして塞雨さいうしげ
羌童看渭水     羌童きょうどう 渭水いすいを看
使客向河源     使客しかく 河源かげんに向かう
煙火軍中幕     煙火えんか 軍中の幕ばく
牛羊嶺上村     牛羊ぎゅうよう 嶺上れいじょうの村
所居秋草静     居る所 秋草しゅうそう静かなり
正閉小蓬門     正まさに閉ず小蓬門しょうほうもん
雲は崑崙山のかなたにつらなり
雨は砦にしんしんと降りしきる
羌族の童は 渭水の水嵩を見にゆき
使者は黄河の上流へ向かおうとする
軍の幕営には 炊煙がただよい
山上の村では 牛や羊が放牧されている
棲みかの辺に 秋草は静かにはえ
蓬生の小門は たったいま閉じたところだ

 秦州は雨の多い土地です。
 其の十の詩では、そのようすや付近の生活のさまが牧歌的に描かれます。
 しかし、西へ向かう使者や軍の幕営には戦争の影がただよっており、そんななかで杜甫は、自分の棲みかを隠者の住まいのような境地で詠っています。


   秦州雑詩 二十首 其十一 秦州雑詩 二十首 其の十一 杜 甫
蕭蕭古塞冷     蕭蕭しょうしょうとして古塞こさい冷かに
漠漠秋雲低     漠漠ばくばくとして秋雲しゅううん
黄鵠翅垂雨     黄鵠こうこくは翅つばさを雨に垂れ
蒼鷹饑啄泥     蒼鷹そうようは饑えて泥でいに啄ついば
薊門誰自北     薊門けいもん 誰か北よりする
漢将独征西     漢将 独り西を征す
不意書生耳     意おもはざりき 書生しょせいの耳
臨衰厭鼓鞞     衰すいに臨みて 鼓鞞こへいに厭かむとは
古い砦は ものさびしく冷え
秋の雲は 低く果てなく広がっている
黄鵠は 雨に濡れた翼を垂れ
鷹は飢えて 泥中に餌をついばむ
北の薊門を出て南進するのは誰か
味方の将軍はひたすら西を征するだけ
思いもしなかった 自分のような書生の耳が
老衰して 兵鼓の音に聞き飽きるとは

 秋の霖雨がつづき、城塞に秋気が迫るなか、東方の戦はまだ止みません。
 「薊門」は順天府薊州(北京)の門のことで、南下するのは史思明の軍です。
 史思明は洛陽を占領して大燕皇帝を自称しているというのに、政府軍は西の吐蕃を防ぐのに忙殺されています。杜甫はこの年齢になって、儒生である自分が、兵鼓の音に聞き飽きるとは思いもしなかったと嘆きます。


   秦州雑詩 二十首 其十二 秦州雑詩 二十首 其の十二 杜 甫
山頭南郭寺     山頭さんとうの南郭寺なんかくじ
水号北流泉     水は北流泉ほくりゅうせんと号ごう
老樹空庭得     老樹ろうじゅ 空庭くうていに得
清渠一邑伝     清渠せいきょ 一邑いちゆうに伝う
秋花危石底     秋花しゅうか 危石きせきの底もと
晩景臥鐘辺     晩景ばんけい 臥鐘がしょうの辺へん
俛仰悲身世     俛仰ふぎょうして身世しんせいを悲しめば
渓風為颯然     渓風けいふうも為に颯然さつぜんたり
山のほとりの南郭寺
湧き出る水を 北流泉という
荒れた庭に老木があり
清らかな水路が村中にゆきわたる
傾いた岩の根もとに秋草の花
転がった鐘のあたりの夕陽影
身もだえして 生涯のさまを悲しむと
谷風も共に寂しく吹いてきた

 「南郭寺」は寺の名前ではなく、城内の南の郭内にある寺とも読めます。
 その寺の荒れたようすを描く中四句の対句は美しく繊細です。
 荒れ果てた寺ではあるけれども、美しい夕暮れの風物を見るにつけ、老年になって戦乱の世に遭い、僻地に流浪する人生が辛く悲しくてなりません。
 尾聯の「俛仰して身世を悲しめば 渓風も為に颯然たり」には、訓読ならではの引き締まった悲壮感があると思います。


   秦州雑詩 二十首 其十三 秦州雑詩 二十首 其の十三 杜 甫
伝道東柯谷     伝道でんどうす東柯谷とうかこく
深蔵数十家     深く蔵ぞうす数十家
対門藤蓋瓦     門に対して 藤 瓦を蓋おお
映竹水穿沙     竹に映じて 水 沙すなを穿うが
痩地翻宜粟     痩地そうちかえって粟あわに宜よろしく
陽坡可種瓜     陽坡ようひ 瓜を種う可しと
船人近相報     船人せんじんちかごろ相報あいほう
但恐失桃花     但だ恐る桃花とうかを失しつせむかと
伝え聞く東柯谷は
谷間の奥に 数十戸の家がある
門傍の藤は 瓦を蓋って伸び
竹林の緑は 水に映えて砂洲に揺れる
痩せた土地は粟を育てるのに適し
日当たりの土手に瓜も植えられる
船頭が 近ごろ報せを持ってきた
「はやく住まないと桃花源をなくしますよ」と

 「東柯谷」は秦州城の東南三〇㌔㍍ほどのところにある山間の村で、杜甫の甥の杜佐はこの村に住んでいました。杜甫は杜佐をたよりに秦州に来ましたが、杜佐が近くに住むように勧めたようすはありません。
 むしろ杜佐は杜甫一家の移住を迷惑に感じていた節があります。
 東柯谷は桃花源のようないいところですよと勧めてくれたのは知り合いの船頭でした。


   秦州雑詩 二十首 其十六 秦州雑詩 二十首 其の十六 杜 甫
東柯好崖谷     東柯とうかは好き崖谷がいこくにして
不与衆峰群     衆峰しゅうほうと群ぐんせず
落日邀双鳥     落日は双鳥そうちょうを邀むか
晴天養片雲     晴天は片雲へんうんを養やしな
野人衿険絶     野人やじんは険絶けんぜつなるを衿ほこ
水竹会平分     水竹すいちくは会く平分へいぶん
採薬吾将老     薬を採りて吾われは将まさに老いんとす
児童未遣聞     児童には未いまだ聞か遣めず
東柯の谷は 好ましい崖下にあり
まわりの峰からは はずれている
夕陽はつがいの鳥を迎え
晴れた空にちぎれ雲が湧く
土地の者は 険しい地形を自慢とし
池と竹林は ほどよく釣り合っている
薬草採取で過ごそうとも考えるが
子供たちには まだ話していない

 「秦州雑詩」の其の十四と其の十五の詩は、東柯谷についての伝説などを述べる詩ですので省略します。其の十六の詩は前二句、中四句、後二句の詩形になっており、前二句で東柯谷の慨略を述べ、中四句は整った対句で東柯谷の細部を描いており、見事です。杜佐の迷惑気なようすにもかかわらず、杜甫は東柯谷が気に入って、後二句ではここで薬草採取でもしながら老後を過ごそうかと考えたようです。しかし、まだ決心しているわけではなく、子供たちには「未だ聞か遣めず」と言っています。


   秦州雑詩 二十首 其十八 秦州雑詩 二十首 其の十八 杜 甫
地僻秋将尽     地僻へきにして秋将まさに尽きむとす
山高客未帰     山高くして客かく未だ帰らず
塞雲多断続     塞雲さいうん 多く断続す
辺日少光輝     辺日へんじつ 光輝こうきすくな
警急烽常報     警急けいきゅうほう常に報ず
伝聞檄屢飛     伝聞でんぶんす 檄げきの屢々しばしば飛ぶを
西戎外甥国     西戎せいじゅうは外甥がいせいの国
何得迕天威     何ぞ天威てんいに迕たがうことを得
僻地に秋は尽きようとするが
山に囲まれて まだ旅路のままだ
砦に雲はとぎれとぎれにつづき
最果ての地は 太陽の光も弱い
烽火は 常に警報を伝え
頻々と 檄が飛ぶのを伝え聞く
西戎は 甥の国であるのに
どうしてご威光にさからうのか

 「秦州雑詩」其の十八では秋の深まりを告げています。
 秋は深まりますが、杜甫の安住の地は定まりません。
 「西戎」は吐蕃(チベット)のことですが、唐は吐蕃の王に皇女を嫁したにもかかわらず、唐の外甥にあたる吐蕃王はいまや唐に叛しています。
 杜甫は儒教の立場から、そのことを悔しがっているのです。


   秦州雑詩 二十首 其十九 秦州雑詩 二十首 其の十九 杜 甫
鳳林戈未息     鳳林ほうりんほこ未だ息まず
魚海路常難     魚海ぎょかいみち常に難かた
候火雲峰峻     候火こうか 雲峰うんぽうけわしく
縣軍幕井乾     縣軍けんぐん 幕井ばくい乾く
風連西極動     風は西極せいきょくに連なりて動き
月過北庭寒     月は北庭ほくていを過ぎて寒し
故老思飛将     故老ころう 飛将ひしょうを思う
何時議築壇     何の時か築壇ちくだんを議せん
鳳林関では まだ戦はやまず
魚海の辺り 行路は常に困難である
雲つく峰に 烽火は挙がり
遠征軍の幕舎の井戸は乾いている
風は連なって西の果てに吹き
月は北庭府を過ぎて寒々と照る
老人たちは 飛将軍李広に期待するが
何時になったら 勇将の登用を議するのか

 「鳳林」の関所は甘粛省蘭州市の近くにありました。
 「魚海」は吐蕃との国境にある湖です。「北庭」は北庭都護府のことで、唐代ではいまの新疆省孚遠県に置かれていました。西方への遠征軍の戦果はあがらず、人々は漢代の飛将軍「李広」のような名将が任命されるのを期待していると杜甫は詠います。李広は秦州の出身でした。


   秦州雑詩 二十首 其二十 秦州雑詩 二十首 其の二十 杜 甫
唐堯真自聖     唐堯とうぎょう 真に自おのずから聖せいたり
野老復何知     野老やろうた何をか知らん
曬薬能無婦     薬を曬さらすには能く婦無からんや
応門幸有児     門に応ずるには幸いに児有り
蔵書聞禹穴     書を蔵するには禹穴うけつありと聞き
読記憶仇池     記を読みて仇池きゅうちを憶おも
為報鴛行旧     為ために報ぜよ 鴛行えんこうの旧きゅう
鷦鷯在一枝     鷦鷯しょうりょうは一枝いっしに在りと
わが君は 生まれながらの聖帝だから
田舎おやじが口を挟むこともあるまい
薬草干しの手伝いに 似合いの女房がいないわけではなく
門番としては 男の子がいる
書庫として禹穴のことは聞いており
旧記を読んで仇池を訪ねたいと思っている
わがために 朝廷に居並ぶ友に伝えてくれ
鷦鷯みそさざいが生きるには 小枝一本で充分と

 「秦州雑詩」二十首の最後は、杜甫の悲痛な叫びで結ばれています。
 すでに辞官した身だから国政を案じても仕方がないと諦めの言葉をもらし、薬草を採取して暮らす考えも捨ててはいませんが、士身分の者として読書の大切なことも忘れてはいません。最後の二句で、自分が生きるにはわずかの救援があれば足りるのですと、朝廷の友に窮状を訴えます。
 しかし、どこからも救いの手は伸びてきませんでした。

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