鄭公は独活うどの大木で 鬢毛は白く
酒を飲んでは 老絵描きに過ぎないと称する
いまや厳罰を蒙り 傷ましくも万里の地に流される
中興の時に遇いながら あわや死罪に瀕したのだ
あわただしく 遠い旅路に発たれたが
お会いできず 見送りにも遅れてしまう
たとえ先生と 永の別れとなろうとも
友情は九重ここのえの黄泉路よみじでつくしましょう
杜甫が羌村にいた閏八月から十月までの間に、政府軍は逆賊安慶緒の軍を攻めていました。粛宗の長子広平王李俶りしゅくを元帥とする官軍主力は、兵二十万と号して九月に鳳翔を出陣し、西から長安を攻めます。
政府軍の中には回鶻かいこつの太子葉護ようごの率いる騎兵四千も参加しています。馬は八千頭です。九月に長安を落とした官軍は、逃げる賊軍を追って十月には洛陽も奪回します。粛宗は十月十九日に鳳翔の行在所を出て、十月二十三日には都人の歓呼の声に迎えられて長安に入城します。
杜甫は都城開放の報せを聞くと、家族を連れて長安にもどります。
鄜州から長安までは南下しても二五〇㌔㍍ほどありますので、都に着いたのは十一月になってからでしょう。
成都の玄宗上皇も十二月三日には帰京し、興慶宮にはいりました。
そのころ都では、占領中に賊の官職についていた者に対して厳しい詮議か行われていました。重罪の者は死刑、つぎは自裁、杖刑のほか、罪の軽重に応じて三段階の流罪が行われました。死刑は十二月二十九日に行われ、十八名が斬罪、七名が大理寺(刑獄の役所)での自害を命ぜられました。
杜甫のよき友人であった広文館博士鄭虔ていけんは、占領中、賊軍に強制されて水部員外郎になっていました。
そのためにあわや死刑に処せられるところでしたが、弁護する人があって台州(浙江省臨海県)の司戸参軍に貶されました。杜甫は面会して別れを告げることもできず、詩を贈って送別の思いを述べました。