述 懐 述 懐 杜 甫
去年潼関破 去年 潼関どうかん破れ
妻子隔絶久 妻子 隔絶かくぜつすること久し
今夏草木長 今夏こんか 草木くさき長じ
脱身得西走 身を脱して西に走るを得たり
麻鞋見天子 麻鞋まあい 天子に見まみえ
衣袖露両肘 衣袖いしゅう 両肘りょうちゅうを露あらわす
朝廷愍生還 朝廷 生還せいかんを愍あわれみ
親故傷老醜 親故しんこ 老醜ろうしゅうを傷いたむ
涕涙授拾遺 涕涙ているい 拾遺じゅういを授けらる
流離主恩厚 流離りゅうり 主恩しゅおん厚し
去年 潼関のまもりが破れ
妻子とは 引き離されて久しい
今年の夏 草木が伸びるころ
脱走して 西の朝廷へ参ずることができた
旅の草鞋のまま 天子に謁見し
衣の袖も破れて 両手の肘が見えるほどである
朝廷は 私の生還を喜んでくだされ
友人達も 老け込んだ姿に同情してくれる
嬉し涙を流しつつ 左拾遺の職を授けられ
流離の身は 主恩の厚さに感激する
「行在所に達するを喜ぶ 三首」が鳳翔到着直後の作品であるのに対して、「述懐」はそれからひと月ほどたった五月十六日以後の作品です。「述懐」はそのころの杜甫の感懐を述べるもので、はじめの十句で長安を脱出して粛宗の朝廷に参じ、左拾遺の職を授けられた喜びを述べます。鳳翔の朝廷には旧知の者も多く、敵地から逃れてきた杜甫は歓迎されます。
旅装のままで粛宗に謁見し、慰労の言葉を下されます。
厳武げんぶは杜甫の若いころからの理解者であった厳挺之げんていしの息子で、このとき粛宗朝の給事中(正五品上)の要職にありました。
また賈至は譲位の詔勅を起草して房琯と共に粛宗朝に参加していた詩人でした。これら友人たちの推薦によって、杜甫は五月十六日に左拾遺(従八品上)に任ぜられます。
左拾遺は門下省に属し、品階は高くありませんが、天子の側近にあって諫言と正言をすすめる清官せいかんです。
進士でもない杜甫が文士の正道をゆく官職に就いたわけですから、杜甫は感激して左拾遺の職を受けます。
家族に会いたいと言えば 許されたかもしれないが
口には出せず がまんをしていた
書を送って 三川県のようすを聞くが
家が在るかどうかも分からない
聞けば一帯は 戦禍に見舞われ
鶏や子犬に至るまで 殺されてしまったとか
山中の雨漏りする茅葺の家
戸口や窓辺で 誰が私を待っていてくれるのか
松の根元で ばらばらになっていても
寒冷の地だから 骨まで朽ちてはいないであろう
いったい幾人が いのち永らえているのだろうか
家族全員との再会は できそうにない
杜甫は鳳翔に着くと、すぐにでも家族の安否を尋ねるために羌村に行きたかったのですが、さすがにそれは口に出せず、鄜州方面へゆく人に書信を託して家族の安否を調べました。
しかし、三川県羌村からの返事はなかなか返ってこず、聞こえてくるのは鄜州方面は兵禍に遭って、鶏や子犬までが殺されてしまったという悲惨な噂だけです。杜甫の心配はつのり、家族は死に絶えてしまったのではないかと思います。
険しく立ちはだかる猛虎の地
胸も潰れる思いで 私はその地をかえりみる
一通の書を送ってから
すでに十か月がたっている
いまは 返事が来るのが恐ろしい
私の心は どうしていいかわからない
王朝の命運は やっと中興に向かいはじめたが
私は老いの身を 酒びたりで過ごしている
楽しく過ごした日を しみじみと思い出し
進退きわまって 孤独な老人になることを恐れている
詩中に「一封の書を寄せし自り 今は已に十月の後なり」とありますが、「十月」は誤記とされています。杜甫は返事が来るのさえ恐ろしいと絶望にかられますが、書信を出してから三か月後の七月には鄜州の妻から返事が届き、家族全員が無事であるとわかります。
この詩は返事を受け取る前に書かれたものです。