孟冬十郡良家子 孟冬もうとう 十郡の良家りょうかの子こ
悲陳陶 陳陶を悲しむ 杜 甫
初冬の十月 十郡の良家の児らは
陳陶斜で戦い 沼沢は血の海となる
雄たけびの声は消え 野は虚しく空は澄み
四万の皇軍は その日のうちに全滅した
胡軍の兵は凱旋し 血の池で箭を洗い
胡歌を唱いつつ 長安の酒を飲む
都人は顔をそむけ 北に向かって泣きながら
官軍の来るのを いまかいまかと待ち望む
杜甫が長安に軟禁されていた至徳元年(七五六)の八月ごろ、霊州の粛宗は事後承認のかたちで成都の玄宗を上皇天帝にまつりあげ、自分への譲位を求めます。その要請が成都に届くと玄宗はやむなく承認し、譲位の詔勅を起草して宰相の房琯ぼうかんを使者として粛宗のもとに届けさせました。
その間、粛宗は朔方郡に出陣していた朔方節度使郭子儀かくしぎの軍を霊武に呼びもどし、霊州を出て東南に軍を進め、九月には順化(甘粛省慶陽県)に進出していました。
房琯が粛宗のもとに着いたのは順化においてでした。
粛宗は玄宗が上皇天帝になることを受け入れ、譲位の詔勅を送ってきたことを喜び、房琯をとどめて自分の政府の宰相に任じました。
粛宗の軍は南下して十月には彭原(甘粛省寧県)に到り、房琯に首都の奪還を命じます。
房琯は十郡の兵六万余を率いて南下し、西から長安に迫ります。
安禄山の軍との戦闘は十月二十一日に咸陽(長安の西北)の西の陳陶斜で行われ、政府軍は一日の戦闘で大敗してしまいました。
杜甫は長安にあって政府軍の勝利を期待していましたが、敗れたのを知って詩を作りました。戦場のようすは想像でしょうが、長安に凱旋してきた安禄山軍のようすは実際に見たものでしょう。
悲青坂 青坂を悲しむ 杜 甫我軍青坂在東門 我れ青坂せいはんに軍ぐんして東に門在り
わが軍は青坂に陣し 東に門に対している
寒空の下 太白の岩屋で馬に水を飲ませたのだ
黄色い頭巾の敵兵は 日に日に西へ寄せてくる
味方の数騎が 弓をひきしぼって突出する
山には雪 川には氷 野原に風は吹きすさび
青くたなびく烽火の煙 白いのは死者の骨だ
どうにかしてわが軍に書を届け
我慢して明年を待て あわてるなと言ってやりたい
陳陶斜の敗戦は彼我の戦闘方法に違いがあったからだと思われます。幽州の兵はこれまで北の胡賊と戦い、胡の降兵を自軍に取り込んでいますので、騎兵を中心とした突撃力の高い兵でした。
それに対して房琯は伝統的な兵法を重んずる指揮官で、兵車を並べ歩兵で進撃しようとします。
賊将の安守忠あんしゅちゅうは風上から草に火を放って視界をさえぎり、官軍の混乱に乗じて騎馬で突撃してきたといいます。
敗れた房琯は敗兵を太白山(陝西省武功県)の麓に集めると、兵をととのえて二日後の十一月二十三日に青坂に陣を構えます。
詩中の「東門」を咸陽の東門と解する説もありますが、官軍は西から攻めていますので、東向きに門に対して布陣したと解しました。
「黄頭の奚児」というのは黄色の狐の皮のかぶり物で頭を包んだ胡族の兵で、門を出て西へ前進してきました。たまりかねた味方の兵数騎が胡兵の挑発に乗って突出し、またも大敗を喫してしまいます。
杜甫はここは忍耐して明年を待てと言ってやりたいがどうすることもできないと、官軍の二度もの敗戦に心を痛めます。