彭衙行        彭衙行   杜 甫
憶昔避賊初     憶おもう 昔 賊を避けし初め
北走経険難     北に走って険難けんなんを経たり
夜深彭衙道     夜は深し 彭衙ほうがの道
月照白水山     月は照る 白水はくすいの山
尽室久徒歩     室しつを尽くして久しく徒歩す
逢人多厚顔     人に逢えば厚顔こうがん多し
参差谷鳥鳴     参差しんしとして谷鳥こくちょう鳴き
不見遊子還     遊子ゆうしかえるを見ず
思えば昔 賊軍を避けて北へ逃げ
その途中 険しい山道にさしかかった
彭衙の道は夜なお暗く
月だけが 白水の山を照らしている
一家を連れて 幾日も歩きつづけ
人と出会えば あつかましく世話になった
谷間の鳥は あちらこちらで勝手に鳴き
道には人の影もない

 杜甫が奉先県の家族のもとに着いたころ、東北の幽州(北京)で重大な事件が発生していました。
 十一月九日の早朝、節度使の安禄山あんろくさんが兵を挙げたのです。
 李林甫が宰相であったころ、安禄山と楊国忠は互いに天子の寵を競い合う競争相手でした。ところが李林甫が死んで楊国忠が宰相になると、楊国忠は安禄山を危険な人物として排除しようとしました。
 身の危険を感じた安禄山は「君側の奸を討つ」と称して立ち上がったのです。安禄山にははじめ国を奪うといった野心はなかったものと思われます。奉先県で幼児の死を悲しんでいた杜甫は、叛乱発生の報せを聞くと、家族を長安に連れて帰るのは中止して、すぐさま都にもどります。なったばかりとはいえ、杜甫は右衛率府兵曹参軍事ですので、急いで任務に就く必要があったのです。
 その間に安禄山の軍は破竹の勢いで河北の平原を南下し、十二月三日には黄河を渡ります。十三日には洛陽になだれこんで、東都を占領してしました。朝廷は河西・隴右節度使の哥舒翰かじょかんを兵馬副元帥に任じて潼関の守りを固めます。
 明けて天宝十五載(七五六)の正月三日、安禄山は洛陽で即位して皇帝を称し、国号を大燕、年号を聖武と定めました。
 政府軍があまりにももろく退いたので勝利に気を良くし、また兵の士気を高めるためにも建国の志を示す必要があったものと思われます。そのころ政府軍の側では河東の太原に兵を出し反撃に転じ、河北でも勇気のある郡太守らが兵を集めて、安禄山軍の背後を撹乱し、抵抗をはじめていました。潼関の哥舒翰はこれらの動きを見ながら反撃の機会をうかがっていましたが、長安の楊国忠は一刻もはやく洛陽の賊を退けるように督促します。哥舒翰は通敵の疑いすらかけられたので、六月八日に潼関を出て、桃林(河南省霊宝県の西)で安禄山軍と戦いますが、大敗してしまいます。
 杜甫は潼関の戦線が緊張してきたのをみて、六月のはじめに奉先県に行き、家族を白水県の母方の「おじ」崔氏のところに移していました。そこに唐軍潼関に敗れるとの敗報が伝わってきましたので、杜甫は一家を連れてさらに北へ向かって避難します。
 五言古詩「彭衙行」ほうがこうは、このとき白水県から友人孫宰そんさいのいる同家窪どうかわまでの逃避行を詠うものです。
 彭衙は白水と同家窪の途中にある町で、白水県に属しています。
 距離はさほどではありませんが、幼児らを連れて夜の山道を徒歩でゆく逃避行は困難を極めたようです。

痴女饑咬我     痴女ちじょは飢えて我れを咬
啼畏虎狼聞     啼いて畏おそる 虎狼ころうの聞ゆるを
懐中掩其口     中うちに懐いだいて其の口を掩おおえば
反側声愈嗔     反側はんそくして声愈々いよいよいか
小児強解事     小児しょうには強いて事を解し
故索苦李餐     (ことさ)らに苦李(くり)(もと)めて(くら)
一旬半雷雨     一旬いちじゅんなかばは雷雨
泥濘相攀牽     泥濘でいねいあい攀牽はんけん
既無禦雨備     既に雨を禦ふせぐ備え無く
径滑衣又寒     径みち滑かにして衣又寒し
有時経契闊     時とき有りて契闊けつかつたるを経
竟日数里間     竟日きょうじつ 数里の間かん
幼い娘は 腹が減ったとすがりつき
虎や狼の遠吠えを 恐いと言って泣き叫ぶ
抱きしめて 口を抑えると
そね反って いっそう大声でわめく
男の子は 我慢しているようだったが
ひもじさに にがい李すももを拾って食べた
十日のうち 半ばは雷雨となり
ぬかるみを 助け合いながら通る
雨具の用意もないので
濡れて震え 滑りながら進む
ときには 難所にぶつかり
一日がかりで数里をたどる

 夜道で虎や狼の吠える声が聞こえ、幼い娘は恐がって泣き叫びます。
 食糧の用意もなかったので、苦いすももを拾って食べる子もいます。
 このあたり六句の描写は目に見えるようで、杜甫の作詩力のすごさを感じます。時期は陰暦六月の中旬、潼関陥落の直後のことで、夏の雷雨が五日もつづきます。
 雨の中、雨具の用意もないので濡れてふるえながら、泥水の山道をころびつつ助け合って避難してゆくようすが描かれます。
 杜甫の一行は妻と幼い二子二女のほか、異母弟の杜観と杜占も伴っていたはずで、杜甫を入れて八人です。
 荷物を持つ従者も二人くらいは従えていたかもしれません。

野果充餱糧     野果やかを餱糧こうりょうに充
卑枝成屋椽     卑枝ひしを屋椽おくてんと成
早行石上水     早あしたには行く 石上せきじょうの水
暮宿天辺煙     暮くれには宿る 天辺てんぺんの煙
少留同家窪     少しばらく同家窪どうかわに留とどまり
欲出蘆子関     蘆子関ろしかんに出でんと欲す
故人有孫宰     故人こじん 孫宰そんさい有り
高義薄曾雲     高義こうぎ 曾雲そううんに薄せま
野生の木の実で 飢えをしのぎ
垂れた小枝で 夜露をさける
朝には 岩だらけの流れを渡り
夜には 尾根の霞をまとって眠る
しばらく同家窪にとどまり
蘆子関に抜けようと思う
同家窪には 旧友の孫宰がいて
情誼の篤さは 雲に届かんばかりである

 杜甫一家の逃避行はつづきます。
 野生の果実で飢えをしのぎ、野宿をする旅です。
 このとき杜甫は同家窪の孫宰の家でしばらく体を休め、さらに北の蘆子関に抜けようと考えていたようです。蘆子関は漢代の長城に接する関門の町で、北にはオルドスの砂漠地帯が広がっています。
 杜甫は最北端の地まで家族を逃がすつもりであったようです。
 潼関の敗戦の衝撃がいかに強かったかがうかがわれます。

 延客已曛黒     客を延くとき已すでに曛黒くんこくなり
 張燈啓重門     燈とうを張って重門ちょうもんを啓ひら
 煖湯濯我足     湯を煖あたためて我が足を濯あらわしめ
 剪紙招我魂     紙を剪って我が魂たましいを招く
 従此出妻孥     此れより妻孥さいどを出だし
 相視涕闌干     相視あいみて涕なみだ闌干らんかんたり
 衆雛爛漫睡     衆雛しゅうすうの爛漫らんまんとして睡ねむれるを
 喚起霑盤飧     喚び起こして盤飧ばんそんに霑うるおわしむ
 誓将与夫子     「誓って将まさに夫子ふうし
 永結為弟昆     永く結んで弟昆ていこんと為らん」
 遂空所坐堂     遂ついに坐する所の堂どうを空
 安居奉我歓     居きょを安んじて我が歓かんに奉ず
家に着いたときは ほの暗くなるころで
明かりをともし 扉を開いて迎えてくれた
暖かいお湯で 足湯をつかわせ
剪紙きりがみを作って 招魂の祈りをしてくれた
それから妻子を引き合わせ
見つめ合って とめどなく涙を流す
ぐっすりと寝込んでしまった子供らを
ゆり起こして 夕餉のごちそうにあずかる
「いついつまでも先生とは
兄弟のちぎりを結びたいものです」
そう言って彼は 自分の部屋をあけ
気がねなく寝泊まりできるようにしてくれた

 同家窪の孫宰の家に着いたのは暗くなるころでしたが、孫宰は灯火をともし扉を開いて迎え入れてくれました。「紙を剪って我が魂を招く」のは遠来の客を迎え入れるときの招魂の儀式でしょう。
 孫宰は在地の知識人と思われ、杜甫を尊敬していて鄭重に迎えます。それから連れている家族を引き合わせたりしますが、このあたりの描写はとても細やかで、杜甫の繊細な感情があふれるように詠われているのを感じます。

 誰肯艱難際     誰か肯あえて艱難かんなんの際に
 豁達露心肝     豁達かつたつとして心肝しんかんを露あらわさん
 別来歳月周     別来べつらい 歳月周めぐ
 胡羯仍構患     胡羯こけつお患うれいを構かま
 何当有翅翎     何いつか当まさに翅翎しれいって
 飛去堕爾前     飛び去きて爾なんじの前に堕つべき
このような苦難のときに
誰がこれほどの親切を示せようか
一別以来 やがて一年になるが
夷狄の軍は なお災禍を撒き散らしている
いつかこの身に 空飛ぶ羽根が生えたなら
一気に飛んで あなたの前に降り立ちたい

 実はこの詩は家族を連れて北へ逃避中、同家窪の孫宰の家に世話になった一年後の作品で、鳳翔の粛宗の行在所に投じてから書いたものです。戦乱の中でようやく所を得てから、当時の体験がなまなましく思い出され、孫宰の親切に感謝して詩を送ったものでしょう。
 だから「別来 歳月周り」と言っています。
 杜甫は同家窪からさらに北へ六五㌔㍍ほど行った鄜州ふしゅうに辿りつき、鄜州(陝西省富県)の三川県羌村きょうそんというところに家を見つけて、そこにとどまることにしました。
 蘆子関までは行かずに途中でとどまったのです。

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