対雪         雪に対す  杜 甫
戦哭多新鬼     戦哭せんこく 新鬼しんき多く
愁吟独老翁     愁吟しゅうぎん 独り老翁
乱雲低薄暮     乱雲らんうん 薄暮はくぼに低
急雪舞廻風     急雪きゅうせつ 廻風かいふうに舞う
瓢棄樽無淥     瓢ひょう棄てられて 樽たるに淥ろく無く
炉存火似紅     炉存して 火は紅くれないに似たり
数州消息断     数州 消息しょうそく断たれ
愁坐正書空     愁え坐して 正まさに空くうに書す
戦場で泣き叫ぶ声 それは戦死者の霊魂だ
詩を吟ずる声もある それはひとりの老翁だ
夕闇のなかで 乱雲は低くたれこめ
つむじ風のなか 雪は激しく舞っている
柄杓は打ち捨てられ 樽に酒はなく
煖炉に火はあっても ほんのりと赤い程度だ
幾つかの州の 消息は途絶え
愁えて坐し 虚空にひたすら字を書きつけている

 この詩は陳陶斜・青坂の敗戦後ほどなく書かれたものと思われます。中四句を前後からはさむ形式の五言律詩で、はじめの二句で戦場の死者を悼み、自分は詩を吟ずるくらいしかできない老翁であると自分の無力を嘆きます。中の四句は杜甫が坐している堂房から見える外の景色と室内のようすを描いていますが、わびしい無力感が色濃くただよっています。
 最後の二句で幾つかの州が賊の手に落ちたことをいい、「愁え坐して 正に空に書す」と言っていますが、これには故事があります。
 晋末に殷浩いんこうという人が時の政事を愁えて、毎日空中に「咄咄怪事」の四文字を書いていたそうです。
 その意味は「ちくしょう おかしなことだ」といったつぶやきで、杜甫も同じような憤懣の文字を虚空に書きつけていると言っているのです。


  春望          春望   杜 甫
国破山河在     国破れて山河在り
城春草木深     城春にして草木そうもく深し
感時花濺涙     時に感じては花にも涙を濺そそ
恨別鳥驚心     別れを恨んでは鳥にも心を驚かす
烽火連三月     烽火ほうか 三月さんげつに連なり
家書抵万金     家書かしょ 万金ばんきんに抵あた
白頭掻更短     白頭はくとう 掻けば更に短く
渾欲不勝簪     渾すべて簪しんに勝えざらんと欲す
国は破れて 山河は残り
春は廻って 城内に草木は茂る
時世を憂えて 花を見ても涙をながし
別離を恨んで 鳥の声にも心がいたむ
烽火は 三月にわたってやまず
家族の便りは 万金よりもとうとい
頭を掻けば 白髪はさらに抜け落ち
冠ももはや 留めておけなくなりそうだ

 戦局は官軍不利のまま冬が過ぎ、明けて至徳二年(七五七)の春になります。囚われの身にも春はかわりなくやってきますが、杜甫は城内にあって亡国の悲哀に沈んでいます。
 五言律詩「春望」しゅんぼうは杜甫の詩のなかで、もっともよく知られた名作です。日本人の知っている漢詩の第一位が、この詩という統計もあるそうです。詩中の「簪」は冠かんむりをとめるピンのことで、冠は成人男子であることを示す被り物です。
 「渾て簪に勝えざらんと欲す」は心配で髪が薄くなり、冠も留めて置けなくなったと解されますが、裏の気持ちとしては、こんな国難の時に囚われの身では、冠をつけて人前に出ることもできなくなったという自責の念も含まれていると思われます。

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