北陂杏花         北陂の杏花    王安石
 一陂春水繞花身   一陂(いっぴ)の春水 花身を(めぐ)
 身影妖嬈各占春   身影 妖嬈(ようじょう) 各々春を占む
 縦被春風吹作雪   (たと)い春風に吹かれて雪と()るも
 絶勝南陌碾成塵   絶えて勝る 南陌(なんぱく)()かれて塵と成るに
春の水は池に満ち 杏の木をとりかこむ
杏の花も花影も あでやかに春を楽しむ
春風に吹かれて 花吹雪になろうとも
道端に踏み敷かれ 塵となるよりまだましだ

 王安石(おうあんせき)は真宗の天禧五年(一〇二一)に撫州臨川(江西省臨川市)で生まれました。二十二歳で進士に及第し、地方官を歴任したあと、煕寧二年(一〇六九)、神宗に抜擢されて参知政事となり、「新法」と称される広範な政事改革を敢行しました。この改革によって行き詰まっていた宋の財政は改善されましたが、新法によって利益を失う大商人や大地主の反対も強く、当時の官僚の多くは地主層の出身でしたので、これらの保守派の官僚も王安石の改革を批判しました。王安石に対する神宗の信任は厚く、王安石は礼部侍郎同中書門下平章事(宰相)に任ぜられて改革を強行したため、朝廷内は新法党と旧法党に二分して争われるようになりました。
 神宗の元豊二年(一〇七九)、息子が夭折したのを機会に五十九歳の王安石は職を辞し、江寧(江蘇省南京市)郊外の鐘山に隠居して詩文や読書・学問研究に過ごすようになりました。
 王安石の政事家としての功績は高く、荊国公の称号を贈られて哲宗の元祐元年(一〇八六)、六十六歳で江寧で没しました。
 詩は隠退してまもないころの心境を述べたものでしょう。
 王安石の改革が後世からよく言われないのは、南宋になって旧法党の系統から朱子学が起こり、儒学の本流となっていったからで、王安石が偉大な政事改革者であったことは評価されなければならないと思います。


  泊船瓜洲        船を瓜洲に泊す   王安石
 京口瓜洲一水間   京口 瓜洲は一水(へだ)
 鐘山秪隔数重山   鐘山 ()だ隔つ 数重の山
 春風又緑江南岸   春風 又緑なり 江南の岸
 明月何時照我還   明月 何れの時か 我が還るを照らさん
京口と瓜洲は 江を隔てて向かい合う
数重の山のむこうに 鐘山がある
春風が吹いて 江南の岸辺は緑色
いつになったら明月は わが家路を照らすのか

 詩中の「京口(けいこう)」は江蘇省鎮江市で、長江の南岸になります。
 「瓜洲(かしゅう)」は京口の対岸の渡津(としん)で、「鐘山」(しょうざん)は江寧(江蘇省南京市)郊外にあり、王安石が隠居の地としてこれから赴く地です。
 王安石が職を辞したのは神宗の煕寧九年(一〇七六)とする説もあり、この詩はその翌々年、神宗の元豊元年(一〇七八)の春、五十八歳のときに江寧に赴く途中、瓜洲に船をとどめたときの作とされています。
 新法反対の勢力に押されてみずから身を引いたとはいうものの、失意の感情が深かったようです。

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