河西節度使の尉とならなかったのは
上官に腰を折るのが悲しいからだ
老人はちょこちょこ走りまわるのが嫌なので
右衛率府のあたりでぶらぶらしていよう
酒を飲むには 禄もすこしは必要だし
狂歌でも吟じて お仕えしよう
故郷への思いも いささか薄れ
風に向かい 故山の彼方を眺めやる
杜甫はどうにか天宝十三載の冬を乗り切り、天宝十四載(七五五)の春を迎えました。官への働きかけの効果もないままに夏が過ぎ、秋になると杜甫は奉先県の妻子を訪ねます。
女児が無事に育っているのを眺め、それから奉先県の北四五㌔㍍のところにある白水県まで足をのばします。
白水県には母方の「おじ」崔明府と崔少府がいます。
明府は県令、少府は県尉のことですので、親族が同じ県の長と次長をしていたことになります。杜甫は「おじ」たちの家にしばらく滞在したあと、帰途に奉先県に立ち寄って秋の終わりに長安にもどってきました。するとそれを待っていたように、十月のはじめに「河西の尉」という赴任地が示されてきました。
河西の尉については不明な点もありますが、河西節度判官の尉という解釈があります。当時、涼州(甘粛省武威県)にあった河西節度使の節度判官の尉(副官の)地位はどうかと内示してきたのです。
杜甫は河西が僻遠の地であることを理由に辞退します。
はじめに内示される任地は、断られることを前提とした空位の慣行があったとも言われていますので、杜甫は改めて
微職ですが杜甫はこれを受けます。詩はそのときの作品で、詩題に「戯れに贈る」とあるのは自分に贈るのでしょう。杜甫には何年も待った結果がこれなのか、という自嘲の思いもあったと思われます。