重過何氏 五首 其一 重ねて何氏に過る 五首 其の一 杜 甫


 問訊東橋竹
     東橋とうきょうの竹を問訊もんじんするに
 将軍有報書     将軍より報書ほうしょ有り
 倒衣還命駕     衣ころもを倒さにして還た駕を命じ
 高枕乃吾廬     枕を高うすれば乃すなわち吾が廬いおりなり
 花妥鶯捎蝶     花の妥つるは鶯の蝶を捎かすめるにて
 渓喧獺趁魚     渓たにの喧かまびすしきは獺の魚を趁うなり
 重来休沐地     重ねて休沐きゅうもくの地に来たれば
 真作野人居     真しんに野人やじんの居きょと作
東の橋の 竹のようすを尋ねてやると
将軍から 返事があった
衣を逆に着るほど急いで 馬の支度をさせる
枕を高くして寝ころぶと わが家のような気分になる
花が散るかと見えたのは 鶯に追われた蝶々で
谷川の音が騒々しいのは 獺が魚を追いかけているのだ
重ねて 将軍の安息の地を訪ねると
ここは本当に 野人の住まいかと思えてくる

 杜甫が何将軍の山荘をはじめて訪れた天宝十二載(七五三)に、長安は日照りと水害に交互に見舞われました。
 そんななか、杜甫が妻子をかかえて浪人暮らしをつづけられたのは、奉天県令の父杜閑の援助があったからだと思われます。
 父杜閑の官歴は奉天県令までで、死去の年はわかっていません。
 しかし、天宝十二載のころまでに死去していたとみられます。
 父親の死後に継室の盧氏と三子一女の異母弟妹が残されました。
 すぐ下の別の異母弟は、斉州(山東省済南市)管下の県の下級事務官になっていて、はやくに自立していました。
 盧氏の生んだ長子杜観は杜甫が長安に出てきた年に生まれていますので、まだ八歳に過ぎません。
 ほかに杜占、杜豊の幼い弟と一女がいて、これら父の遺族五人の生活は杜家の嫡子である杜甫の肩にかかってきます。
 加えて、この年の秋には杜甫の次子宗武(幼名は驥子)が生まれていますので、杜甫は大家族をかかえて生活困窮の度が加わります。
 任官して収入を得ることは、もはや一刻の猶予もできない状態になってきて、天宝十三載(七五四)の正月、杜甫は三度目の延恩匭投書を行いました。そのほか中書省の起居舎人(従六品上)の田澄でんとうや宰相の韋見素いけんそにも嘆願の詩を贈っています。
 その春、杜甫は長安南郊の少陵原の一角、杜曲の地に家を借り、城内から転居しました。杜陵は杜甫の尊敬する遠祖杜預どよの居宅のあった地ですが、転居の本音は自分も入れて十人の大家族になり、城内では暮らすことが困難になって田舎に移ったのでしょう。
 杜曲に転居して間もない晩春のころに、杜甫は何将軍に書簡を書いたようです。住所の移転などを伝えたのかもしれません。
 すると何将軍から遊びに来ないかという返事が届き、杜甫は大喜びで出かけてゆきます。其の一の詩は、何将軍の山荘を再訪するときの詩ですが、小さな子供が七人もいる自宅では騒々しくて、さすがの杜甫も落ち着いて詩想を練ることもできなかったでしょう。
 山荘に来て、ゆったりした気分になったことが山荘の自然の描写と併せて描かれています。獺かわうその騒々しいようすなどを持ち出しているのは、杜曲のわが家の騒々しさと比較していると考えると、杜甫の気持ちがよくわかります。


 重過何氏 五首 其五 重ねて何氏に過る 五首 其の五 杜 甫
到此応常宿     此ここに到っては応まさに常に宿すべく
相留可判年     相い留とどめらるれば年を判つ可し
蹉跎暮容色     蹉跎さたたる暮くれの容色ようしょく
悵望好林泉     悵望ちょうぼうす 好林泉こうりんせん
何路霑微禄     何の路みちか微禄びろくに霑うるお
帰山買薄田     山に帰りて薄田はくでんを買わん
斯遊恐不遂     斯の遊び 恐らくは遂げざらん
把酒意茫然     酒を把りて意は茫然ぼうぜんたり
山荘にやってくると いつも泊まることになるが
引き留められるなら 一年でもここにいたい
日暮れのように うらぶれ果てたわが姿
眺めやるのは 林泉の景の好もしさ
なんとか伝手をえて いくらかの禄にありつき
古里の山に帰って 痩せた土地でも買いたいと思う
だがこの夢が 適えられる日は来ないであろう
杯を手にして ただ茫然と立ちすくむ

 其の五の詩では、杜甫の生活の困窮したようすが語られます。
 延恩匭に三度も賦と表(上書)を投じたけれども、宮中からは何の音沙汰もありません。杜甫は微禄でもいいから何とか禄にありついて、故郷の鞏県か陸渾荘にもどって土に親しむ生活をするのもいいと思ったりします。しかし、それも出来そうにない夢であることも分かっていて、茫然と酒杯を見つめているのです。

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