陪鄭広文 遊何将軍山林 十首 其一 杜 甫
     鄭広文に陪して 何将軍の山林に遊ぶ 十首 其の一
 不識南塘路     識らず 南塘なんとうの路みち
 今知第五橋     今は知る 第五橋だいごきょう
 名園依緑水     名園は緑水りょくすいに依
 野竹上青霄     野竹やちくは青霄せいしょうを上
 谷口旧相得     谷口こくこうとは旧かねてより相い得ちぎれば
 濠梁同見招     濠梁ごうりょうに同じく招かれぬ
 平生為幽興     平生へいぜいより幽興ゆうきょうの為には
 未惜馬蹄遥     未いまだ馬蹄ばていの遥かなるを惜しまず
南塘の路の美さには 不案内だったが
いま 第五橋を渡っている
めざす名園は 緑水に沿ってひろがり
野生の竹が すっくと青空に伸びている
鄭虔は古くから気の合う友であり
水辺の山荘に いっしょに招かれた
自然を楽しむためならば 日ごろから
遠くに馬を走らせても 厭いはしない

 杜甫の詩魂は不遇ななかで次第に研ぎ澄まされてゆきますが、そんな夏、かねて親しくしていた鄭虔ていけんに誘われて、何将軍の山荘に招かれます。何将軍の伝は不明ですが、鄭虔は国士監(国立大学)の教授で、広文館博士でした。学者で絵もよくする文人です。
 其一の詩は山荘に赴くところで、「南塘」は長安の南郊西寄りの地になります。杜甫はこの地をはじめて訪れたようです。
 「第五橋」は橋の名前ですが、第五は順番ではなく、人の姓だそうです。「口谷」は漢の隠者鄭子真ていししんが隠棲していた場所で、鄭虔と同姓であることから鄭虔をしゃれて「口谷」と言ったものです。
 杜甫はこの詩で「幽興」という語を用いています。
 幽はもともと物事の奥深さ、ほの暗さをいう言葉でした。
 杜甫はそれを、自然の摂理のはかりがたいこと、自然の営みの奥深さの意味に用い、新しい語感をつけ加えています。


 陪鄭広文 遊何将軍山林 十首 其二 杜 甫
    鄭広文に陪して 何将軍の山林に遊ぶ 十首 其の二


 百頃風潭上
   百頃ひゃくけい 風潭ふうたんの上
 千章夏木清   千章せんしょう 夏木かぼく清し
 卑枝低結子   卑枝ひしは低くして子を結び
 接葉暗巣鶯   接葉せつようは暗くして鶯を巣くわしむ
 鮮鯽銀糸膾   鮮鯽せんそく 銀糸ぎんしの膾なます
 香芹碧澗羮   香芹こうきん 碧澗へきかんの羮あつもの
 翻疑柁楼底   翻かえって疑う 柁楼だろうの底そこ
 晩飯越中行   晩飯ばんはん 越中えつちゅうを行くかと
広さはおよそ百頃 風の吹く池のほとり
千本ほどの夏木立 清らかに茂っている
枝は垂れ下がって 低いところで実を結び
葉陰の暗がりには 鶯が巣くっている
活きのよい鮒は 銀糸の刺身となり
香りのよい芹は 山菜の羹となる
ふとなんだか 舟の苫屋とまやの底にいて
夕飯などを食べながら 越を旅する心地がした

 其の二の詩では、山荘の自然を繊細な目で描いています。
 対句が揃っていて、首聯は風と池と夏木立、頷聯は枝葉と木の実、鶯の巣、細かい観察です。
 頚聯は川魚や芹の料理、対句と言っても硬直的でなく、柔軟に描かれているところが杜甫の技量のすぐれているところだと思います。
 尾聯では、新鮮な山里の料理を食べながら、若いころに旅行をした越を思い出すと詠っています。
 現在と過去を結びつけて、詩にふくらみを持たせているのです。


 陪鄭広文 遊何将軍山林 十首 其六 杜 甫
         鄭広文に陪して 何将軍の山林に遊ぶ 十首 其の六

 風磴吹陰雪
     風磴ふうとうに陰雪いんせつの吹くは
 雲門吼瀑泉     雲門うんもんに瀑泉ばくせんの吼ゆるなり
 酒醒思臥簟     酒醒めて簟たかむしろに臥さんことを思い
 衣冷欲装綿     (ころも)冷ややかにして綿を(よそお)わんと欲す
 野老来看客     野老やろう 来たりて客を看
 河魚不取銭     河魚かぎょぜにを取らず
 只疑淳樸処     只ひとえに疑う 淳樸じゅんぼくの処ところ
 自有一山川     自おのずから一山川いちさんせん有るかと
風の吹く石坂道に 冷たい雪が吹きつけるのは
洞窟に瀧が吼える 飛沫であった
酒の酔いが醒めて 竹筵に寝そべりたいが
着物がひんやりして 綿を入れたいほどである
客に会いたいと 村の老人たちがやってきて
手土産に持って来た 川魚の代金を取ろうとしない
この淳樸な人たちの 住むところこそ
別天地ではないかと ただひたすらに感じ入る

 其の六の詩の前半では、山荘の涼しさを詠っています。
 それは近くに瀧があって、水飛沫が吹いてくるからでした。
 「雲門」は雲を吐き出すと信ぜられていた石門のことで、後半の布石になっています。後半の頚聯では村の老人たちが訪ねてきて、土産に川魚を持ってきますが、代金を受け取ろうとしません。
 その淳樸な人柄に、杜甫はこの地は陶淵明の『桃花源記』に出てくる桃源境のようなところではないかと感じ入るのです。


 秋雨嘆 三首 其二 秋雨の嘆き 三首 其の二 杜 甫

 闌風伏雨秋紛紛
  闌風らんぷう伏雨ふくう 秋紛紛ふんぷんたり
 四海八荒同一雲  四海しかい八荒はっこう 同じく一雲いちうん
 去馬来牛不復弁  去馬きょば来牛らいぎゅうた弁べんぜず
 濁涇清渭何当分  濁涇だくけい清渭せいい 何ぞ分かつ当けん
 禾頭生耳黍穂黒  禾頭かとう 耳を生じて黍穂しょすい黒く
 農夫田父無消息  農夫 田父でんぷ 消息しょうそく無し
 城中斗米換衾裯  城中 斗米とべい 衾裯きんちゅうに換
 相許寧論両相直  相許さば(なん)ぞ両つながら相直(あいあた)るを論ぜん
秋は乱れて吹きつのる風 横なぐりの雨
四方八方 いちめんの雲に覆われている
往来する牛馬も 牛か馬かの見分けもできず
涇水も渭水も 清濁の区別がつかない
黍の穂先は曲がって 黒く変色し
農夫は出稼ぎに出て 便りもない
城内では一斗の米と 夜具を交換し
換えてもらえばよい方で 値段が釣り合うか問題ではない

 この年、というのは天宝十三載(七五四)のことですが、秋になると六十日間も雨が降りつづきました。前年も日照りと水害が交互に関中を見舞い、都は食糧不足に陥っていました。加えて今年の長雨です。
 城内では米の値段が高騰し、米一斗と夜具を取り換えるほどです。
 大家族をかかえ、禄もない杜甫は生活に困窮し、妻子を奉先県(陝西省蒲城県)の妻の縁者に預けて急場をしのぐことにしました。
 妻の縁者が奉先県の県令をしていたのです。
 ところで困ったのは、父の遺族の盧氏一家をどうするかという問題でした。若い継母や異母兄弟まで妻の縁者に預けるわけにはゆきませんので、杜甫は盧氏の一家を尸郷亭の自分の家に移すことにしたのではないかと思います。このとき盧氏の長子杜観は九歳になっていましたので、杜甫はこの弟は杜曲に残し、留守番などの手伝いをさせようと思いましたが、つぎの弟の杜占(七歳くらい)も兄といっしょに杜曲に残ると言い出しました。そこで、盧氏と末の弟杜豊と一女だけを首陽山下の土室に移すことにしたのではないかと思われます。
 一家は驪山の麓で北と東にわかれ、このときに別れた盧氏と杜豊、妹とは再び会うことがありませんでした。
 杜甫は末の異母弟杜豊のことを生涯気にかけていましたが、とうとう会えないまま杜甫は亡くなっています。妻子を連れて奉先県に行った杜甫は、そのころ妻のお腹に子が宿っていましたので、その子(女児)の誕生を見届けてから冬のはじめに杜曲の家にもどってきました。

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