麗人行          麗人の行    杜 甫
 三月三日天気新  三月三日 天気新たに
 長安水辺多麗人  長安の水辺 麗人れいじん多し
 態濃意遠淑且真  態たいは濃く意は遠く淑しゅくにして且つ真しん
 肌理細膩骨肉匀  肌理きりは細膩さいじにして骨肉匀ひと
 繡羅衣裳照暮春  繡羅しゅうらの衣裳は暮春ぼしゅんを照らし
 蹙金孔雀銀麒麟  蹙金しゅくきんの孔雀くじゃくに銀の麒麟きりん
 頭上何所有      頭上ずじょうには何の有る所ぞ
 翠微盎葉垂鬢脣  翠すいは盎葉に微ほのかにして鬢脣びんしんに垂る
 背後何所見      背後はいごには何の見る所ぞ
 珠圧腰衱穏称身  珠は腰衱(ようきゅう)を圧して穏やかに身に(かな)
三月三日 空はからりと晴れわたり
長安の水辺には 美人が多い
身のこなしは艶やかで 取り澄ました姿は充実している
肌は滑らかできめは細かく 肉づきは釣り合っている
薄絹の刺繍の衣裳は 春の陽にかがやき
金糸の孔雀や銀糸の麒麟で埋めつくされている
頭上には 何があるかと見上げれば
簪のみどりの飾りが 鬢のあたりに揺れている
背中には 何があるかと眺めれば
真珠の飾りが腰の辺まで垂れ ほどよく体にまといつく

 そのころ安西都護の高仙芝(こうせんし)は、怛羅斯(タラス)(キルギス共和国シヤンブィル)河畔で黒衣大食(こくいタージー)(イスラム帝国アッバース朝)の大軍と対峙していましたが、敗れて退き、怛羅斯城に立てこもって防戦していました。
 しかし、葛羅禄カルルク(トルコ族の一派)の内応に遇って大敗します。
 史上有名な「タラスの戦い」です。同じころ剣南節度使の楊国忠ようこくちゅうは雲南の南詔(雲南省大理一帯)を攻めていました。
 天宝十載(七五二)、楊国忠はみずから兵を率いて南詔を再征しようとしていましたが、都から急使が来て長安に呼びもどされます。
 楊国忠が長安に着いた直後の十一月に宰相李林甫りりんぽが病死して、楊国忠は後任の宰相に任じられました。
 李林甫は十八年間も権力の座にあり、楊貴妃の一族といえども李林甫の顔色をうかがいながら用心していました。
 いまや楊貴妃の「ふたいとこ」にあたる楊国忠が宰相になり、楊氏一族には恐れるものがなくなりました。
 杜甫は集賢院待制のまま呼び出しが来るのを待っていましたが、とうとう待ちきれなくなって、天宝十二載(七五三)の正月に再び賦を書いて延恩匭えんおんきに投じました。
 そのころ楊貴妃の一族は、わが世の春を謳歌していました。
 貴妃の兄や姉三人は高位に任ぜられ、宮中にも自由に出入りできる身分です。季春の三月三日は二十四節気には当たりませんが、厄除けの日として水辺で身を清める風習がありました。
 清明節も近いので恵風の吹く気持ちの良い季節です。
 そのころになると、長安の遊楽の地、曲江のほとりでは、宴遊の人々で賑わいを程します。杜甫も出かけて行ったようです。
 「麗人行」の行は歌という意味で、七言を主としていますので七言古詩になるでしょう。はじめの十句は楊貴妃の三人の姉、韓国夫人、虢国(かくこく)夫人、秦国夫人の贅沢なようすをあからさまに描いています。
 表現としては詩的誇張もあるとみるべきでしょう。

 就中雲幕椒房親  就中 雲幕うんばくなる椒房しょうぼうの親しん
 賜名大国虢与秦  名を賜たまう 大国の虢かくと秦しん
 紫駞之峰出翠釜  紫駞しだの峰ほうは翠釜すいふより出で
 水精之盤行素鱗  水精すいしょうの盤は素鱗そりんを行つら
 犀筯厭飫久未下  犀筯さいちょは厭飫えんよして久しく下されず
 鑾刀縷切空紛綸  鑾刀らんとうの縷切るせつは空しく紛綸ふんりんたり
 黄門飛鞚不動塵  黄門こうもんくつばみを飛ばして塵を動かさず
 御厨絡繹送八珍  御厨ぎょちゅう 絡繹らくえきとして八珍を送る
なかでも目立つのは大きな天幕のなか 楊貴妃の親族だ
虢国や秦国と名誉の称号を賜っている
紫の駱駝の瘤が 翡翠の釜から取り出され
水晶の大皿には 銀白の魚が並んでいる
だが食べるのに飽きたのか 犀角の箸はつけないまま
鑾刀で刻んだ細切りの肉は 皿にむなしく散らばっている
ときに宦官が馬を飛ばして 塵も立てずに到着すると
宮中の厨房からは あまたの珍味が送られてくる

 いましも曲江の水辺には、宴会のための大きな天幕が張られ、なかでも豪華なのは楊家の三夫人の天幕です。
 杜甫は中に入ったわけではないと思いますが、天幕のなかの卓には贅沢を極めた料理が並べられていると対句で詠います。
 駱駝の瘤を煮たものや、新鮮な魚の料理です。
 しかし、食べるのに飽きたのか箸もつけられていないと、杜甫は見てきたように述べています。
 細切りの肉も大皿の上に散らばっているけれども、それに加えて、宮中の厨房からは、宦官が馬を飛ばして塵も立てずに新たなご馳走を運んでくるといったサビース振りだというのです。

 簫鼓哀吟感鬼神 簫鼓しょうこは哀吟あいぎんして鬼神を感ぜしめ
 賓従雑遝実要津 賓従ひんじゅうは雑踏して要津ようしんに実
 後来鞍馬何逡巡 後来こうらいの鞍馬あんばの何ぞ逡巡たる
 当軒下馬入錦茵 軒のきに当たりて馬より下り錦茵きんいんに入る
 楊花雪落覆白蘋 楊花ようかは雪のごとく落ちて白蘋はくひんを覆い
 青鳥飛去銜紅巾 青鳥せいちょうは飛び去りて紅巾を銜ふく
 炙手可熱勢絶倫 手を炙あぶれば熱す可し 勢いは絶倫ぜつりんなり
 慎莫近前丞相嗔 慎んで近づき前すすむ莫なかれ 丞相嗔いからん
笛や太鼓は哀しげに鳴って 鬼神を動かし
取り巻きの連中は ごった返して出世のために満ちている
あとから来た馬は 思わせぶりに立ちどまり
軒先で馬をおり 錦の敷き物を踏んでゆく
柳絮りゅうじょが雪のように降って 浮き草を覆い
青い鳥が 紅い領巾ひれをくわえて飛び去ってゆく
手をかざせば 火傷をするほどに権勢は盛んであり
ゆめゆめ天幕のそばに近寄るでない 丞相がお嗔りになる

 最後の八句は杜甫が実際に目にしたことと感想です。
 楊貴妃の姉、三夫人の天幕のあたりには、権力者に取り入ろうとする人々でごった返しており、後から来た人もためらいがちに馬を降りて天幕のなかに入ってゆきます。頽廃は雪のように降りつもって、青い鳥が赤い絹の領巾を口にくわえて飛び去る姿が象徴的に描かれています。結びの二句は杜甫の感想で、「手を炙れば熱す可し 勢いは絶倫なり 慎んで近づき前む莫れ 丞相嗔らん」と右丞相楊国忠の横暴と危険を指摘するのです。
 このころの杜甫は、七言歌行の自由な形式で当代の社会を厳しく批判する詩を書いていますが、だからといってみずからの官途への希望、「奉儒守官」の道を否定するものではありません。唐代の士人にとって、官途は唯一の意義ある人生の選択肢であることに変わりはなく、才能のある自分が埋もれて用いられないことを歎いているのです。

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