兵車行       兵車行    杜 甫
 車轔轔  馬蕭蕭 車 轔轔りんりん 馬 蕭蕭しょうしょう
 行人弓箭各在腰 行人こうじんの弓箭きゅうせん 各々腰に在り
 耶嬢妻子走相送 耶嬢やじょう 妻子 走って相送り
 塵埃不見咸陽橋 塵埃じんあい 見ず 咸陽橋かんようきょう
 牽衣頓足攔道哭 衣ころもを牽き 足を頓して道を攔さえぎって哭し
 哭声直上干雲霄 哭声こくせい 直ちに上って雲霄うんしょうを干す
 道旁過者問行人 道旁どうぼう 過ぐる者 行人こうじんに問えば
 行人但云点行頻 行人但だ云う 「点行てんこうしきりなり」と
兵車はぎしぎしと進み 馬は哀しげに嘶く
兵士は弓矢を それぞれの腰に帯びる
父母や妻子は 必死に追いすがり
舞い上がるほこりのために 咸陽橋も見えないほどだ
上着に縋り足をばたつき 道を遮って泣き叫ぶ
その声は 空に上って雲を突き刺すほどである
通りかかった男が 兵士に問うと
「召集令が ひっきりなしで」と答えるだけ

 杜甫が妻子を連れて洛陽にもどったころ、玄宗は外征に力を入れるようになっていました。西方で吐蕃(チベット)が勢力を増し、唐の西域への交易路を侵すようになったからです。
 安西副都護の高仙芝こうせんしは遠く西方に兵をすすめ、将軍董延光とうえんこうは吐蕃の石堡城(青海省湟源県付近)を攻めました。
 しかし、董延光の軍は吐蕃に敗れて敗走しましので、こんどは河西節度使の哥舒翰かじょかんが六万三千の大軍を率いて再度石堡城を攻め、多数の犠牲者を出して落とすことができました。
 杜甫はそんななか、再度長安に出てきました。
 洛陽にいても、人々の目は西を向いていて、任官の機会からは遠ざかり、気分は滅入るばかりです。天宝九載(七五〇)には長子宗文(幼名熊児)も生まれ、一家は四人になっていました。長安に着くと、西征の兵馬の列が連日のように都門を出て西に向かっています。
 杜甫も人ごみにまじって、それを見にゆきました。
 「兵車行」へいしゃこうは杜甫の社会詩の最初の名作とされています。
 三十四句の大作なので、はじめの十句は出征兵士を見送る家族でごったかえす咸陽橋頭のようすです。
 「道旁 過ぐる者」は杜甫自身のことで、兵士のひとりに尋ねると、答えは「点行頻りなり」でした。召集令がひっきりなしだというのです。

 或従十五北防河  或あるいは十五より北のかた河を防ふせ
 便至四十西営田  便(すなわ)ち四十に至って西のかた(でん)を営む
 去時里正与裹頭  去く時 里正 与ために頭こうべを裹つつ
 帰来頭白還戍辺  帰り来たって 頭白きに還た辺を戍まも
 辺庭流血成海水  辺庭へんていの流血 海水と成るも
 武皇開辺意未已  武皇ぶこう 辺を開く 意未だ已まず
 君不聞        君聞かずや 
 漢家山東二百州  漢家かんか山東さんとうの二百州
 千邨万落生荊杞  千邨せんそん万落 荊杞けいきを生ずるを
 縦有健婦把鋤犂  縦たとい健婦の鋤犂じょりを把る有りとも
 禾生隴畝無東西  禾は隴畝ろうほに生じて東西とうざい無し
 況復秦兵耐苦戦  況いわんや復た秦兵の苦戦に耐うるおや
 被驅不異犬与鶏  駆らるること 犬と鶏に異ことならず
聞けば 十五の時から北の黄河で敵を防ぎ
四十になっても 西の地で屯田兵のままという
郷里を出るとき 里正が元服の頭巾を巻いてくれ
帰れば白髪男を また辺境の守備に駆り立てる
国境のあたりは 流れる血で海のようだというのに
皇帝の領土の野心は いまだ鎮まる気配もない
耳にしているだろう わが関東の二百余州は
いずこの村里も 雑草が生い茂っている
健気な女たちが 鍬や犂で耕しても
作物は田圃のあちこちに生えて ものにならない
かてて加えて 関中の兵士はがまん強いと
犬や鶏のように 戦場に駆り立てられる

 唐代の兵制は、このころまでは農民からの徴兵が維持されていました。農家の正丁が兵役の義務を負っていたのです。
 杜甫がさらに問うと、四十歳を過ぎたその兵士は、十五歳のときから戦に駆り出され、いままた辺境の守備にゆくところだと言います。
 詩中の「武皇」は漢の武帝のことで、漢に時代を借りて、皇帝の領土への野心のために兵士の血が流されていると詠います。
 そのために、村々の畑は雑草が生い茂り、留守の女たちが耕しても作物はものにならないと、荒れた農村のようすを語ります。
 この部分は作者である杜甫の意見と考えてもいいでしょう。

 長者雖有問      「長者ちょうじゃ 問う有りと雖いえど
 役夫敢伸恨      役夫えきふえて恨みを伸べんや
 且如今年冬      且つ今年こんねんの冬の如きは
 未休関西卒      未だ関西かんせいの卒を休めざるに
 県官急索租      県官 急に租を索もとむるも
 租税従何出      租税 何いずく従り出でん」
 信知生男悪      信まことに知る 男を生むは悪しく
 反是生女好      反かえって是れ女を生むは好よろしきを
 生女猶得嫁比隣  女を生まば ()比隣(ひりん)に嫁するを得るも
 生男埋没随百草  男を生まば 埋没まいぼつして百草に随したが
「ご老人のせっかくのお尋ねですが
出役の恨みは 語りつくせるものではありません
そのうえ今年の冬などは
関西の兵が まだ帰還もしないのに
役人は 厳しく租税を取り立て
いったいどこから 絞り出せるというのでしょうか」
男の子を生むのはよそう 女の子の方がまだましと
世間で言うのはもっともなこと
女の子なら まだしも近所に嫁にやれるが
男は戦場の土に埋められ 名もない草の仲間となる

 この詩は歌行かこうという形式で、七言を主としていますが、一句の語数に制約を加えていません。
 一句五言の部分は兵士の語り口を強調するものでしょう。
 兵士は農作も満足にできないのに税金は厳しく取り立てられ、納める手立てもありませんと訴えます。
 そして「信に知る 男を生むは悪しく 反って是れ女を生むは好しきを」と有名な五言の二句を置きます。女の子なら近所に嫁にやれるが、男の子は戦場の土となって消えてしまうというのです。

 君不見  青海頭   君見ずや 青海せいかいの頭ほとり
 古来白骨無人収   古来こらい 白骨 人の収おさむる無く
 新鬼煩冤旧鬼哭   新鬼しんきは煩冤はんえんし 旧鬼は哭こく
 天陰雨湿声啾啾   天陰てんいん 雨湿うしつ 声啾啾しゅうしゅう
君見ずや 青海のほとり
古来 白骨 人の収むるなし
新しい死者は悶えて怨み かつての死者は泣き叫び
降りつづく陰雲のもと 鬼哭は啾々と満ちわたる

 最後の四句は唐代の当時から人口に膾炙しており、古来から名句とされているものです。杜甫は中間を口語をまじえた会話体でつずりながら、前後は漢詩本来のみごとな詩句で締めくくっています。
 詩中に「青海の頭」とありますが、青海(ココノール)のほとりにあった石堡城をさしているのは明らかです。
 友人の高適こうせきは河西節度使哥舒翰の幕僚として吐蕃との戦争に参加していますので、杜甫は戦場の悲惨なようすをつぶさに耳にしたと思います。杜甫は戦場に行ったわけではありませんが、戦争の悲惨を人民の側から詩に取り上げ、名作として仕上げました。

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