奉贈韋左丞丈二十二韻 韋左丞丈に贈り奉る二十二韻 杜 甫
紈袴不餓死     紈袴がんこは餓死がしせず
儒冠多誤身     儒冠じゅかんは多く身を誤あやま
丈人試静聴     丈人じょうじんこころみに静かに聴け
賎子請具陳     賎子せんしう  具つぶさに陳べん
甫昔少年日     甫は昔 少年の日
早充観国賓     早くも観国かんこくの賓ひんに充てらる
読書破万巻     書を読みて万巻ばんがんを破り
下筆如有神     筆を下おろせば神しん有るが如し
賦料揚雄敵     賦は料はかる 揚雄ようゆうの敵なりと
詩看子建親     詩は看る  子建しけんの親しんなりと
富貴の者は飢えて死ぬことなく
儒者はしばしば 身のふり方を間違える
おじ上よ どうか話を聞いてください
わたくしは くわしく申し上げます
甫はかつて年少のころ
はやくも貢挙の推薦を受ける身となり
万巻の書を読み
筆を下ろせば神の助けがあるようでした
賦では揚雄に敵うと思い
詩では曹植の親類かと思うほどです

 杜甫が長安で就職活動をはじめた前年の天宝四載に、玄宗は愛妃の楊太真ようたいしんを貴妃きひに任じていました。
 玄宗は皇后の死後、皇后を置いていませんでしたので、楊貴妃は後宮第一の人になったのです。
 その玄宗が制挙せいきょを実施すると発表しました。
 制挙は通常の貢挙とは別に天子が臨時に行う任用試験で、一芸に秀でた者を全国から長安に集め、考課するのです。
 楊貴妃は玄宗の息子(死んだ皇后の子)の妃であったものを奪って自分のものにしたので、儒教的には筋のよいものではありません。
 玄宗は広く人材を野に求めて、人気の回復を図るために制挙の実施を思いついたものと思われます。
 杜甫にとっては願ってもない機会ですので、勇躍してこれに応募します。試験は天宝六載(七四七)の春に行われましたが、合格者はひとりもいませんでした。
 これには裏があり、当時、宰相であった李林甫りりんぽは、天子が制挙によって新しい人材を登用するのを嫌っていました。
 李林甫は開元二十二年に宰相(複数制)に列して以来、知識人の文人宰相をつぎつぎに辞職に追い込み、権力を一手に掌握しようとしていました。そこで李林甫は、制挙の結果「野に遺賢なし」と奏上し、合格に値する者はひとりもいなかったと報告したのです。
 杜甫は不合格の通知に失望しましたが、どうすることもできません。この年、妻の楊氏は長女を出産したと推定されます。
 杜甫は仕方なく再び詩才による任用に奔走します。
 しかし、事は一向に進まなくなりました。
 宰相の李林甫が人材の採用を望んでいないことを知って、政府の高官たちもあえて火中の栗を拾おうとしなくなったのです。
 丁度そのとき、杜甫の姻戚の韋済いさいが尚書左丞しょうしょさじょうになって長安に赴任してきました。
 韋済の家は祖父・伯父・父と三代にわたって宰相を出したほどの名門で、前任は河南尹(河南府の長官)でしたので、杜甫は洛陽にいるときから目をかけてもらっていました。
 天宝七載(七四七)正月に「丈人」(おじ)韋済が長安に着任すると、杜甫はすぐに訪ねていって詩を献じました。
 この詩は「二十二韻」、つまり四十四句ありますが、当時の杜甫の考えをよくあらわしています。
 まず、はじめの十句では自分は年少のころから詩才があり、賦では揚雄(漢代の詩人)以上と思い、詩では曹植(魏の詩人)の親類ではないかと思うほどでしたと、自信のほどを述べます。

 李邕求識面     李邕りようは面おもてを識らんことを求め
 王翰願卜隣     王翰おうかんは隣となりを卜ぼくせんと願う
 自謂頗挺出     自ら謂おもえらく 頗すこぶる挺出すれば
 立登要路津     立ちどころに要路ようろの津しんに登り
 致君堯舜上     君きみを堯舜ぎょうしゅんの上に致いた
 再使風俗淳     再び風俗をして淳じゅんならしめんと
 此意竟蕭条     此の意ついに蕭条しょうじょうたり
 行歌非隠淪     行歌こうか 隠淪いんりんに非あら
李邕はわたくしに会いたいといい
王翰は隣に越してきたいといいました
自分で思うには たいへん優れているので
たちどころに重要な地位にのぼり
君公を堯舜よりも上に導き
世の風俗を正そうと思っていました
その意気込みも いまは淋しいものとなり
隠者でもないのに 詩歌を吟じているのです

 「李邕」はそのころの文壇の長老で、杜甫は斉州司馬の李之芳のもとに滞在していたとき、北海太守(青州刺史)であった李邕と面識を得て、交際をしていました。「王翰」は「涼州詞」(葡萄の美酒 夜光の杯…)の作者で、当時評判の詩人でした。
 その王翰が隣に住んで親交を結びたいと言っているというのです。
 杜甫は詩人として世に認められているので、たちどころに重要な地位にのぼり、君公を補佐していにしえの聖帝堯ぎょうや舜しゅんよりも上に導き、世の風俗を正そうと思っていましたが、その意気込みも空しくなり、いまは隠者でもないのに詩を吟じているだけだと現状を訴えます。「此の意 竟に蕭条たり」というのは、制挙に落ちたことを言うのでしょう。

 騎驢三十載     驢に騎ること三十載さい
 旅食京華春     旅食りょしょくす 京華けいかの春
 朝扣富児門     朝あしたに富児ふじの門を扣たた
 暮随肥馬塵     暮くれに肥馬ひばの塵ちりに随う
 残杯与冷炙     残杯ざんぱいと冷炙れいしゃ
 到処潜悲辛     到る処 潜ひそかに悲辛ひしん
 主上頃見徴     主上しゅじょうに頃このごろ徴され
 歘然欲求伸     歘然くつぜんとして伸びんことを求めんと欲す
 青冥却垂翅     青冥せいめいかえって翅つばさを垂
 蹭蹬無縦鱗     蹭蹬(そうとう)として鱗を(ほしい)ままにする無し
驢馬の背中に三十年
都の春に旅住まい
朝には富者の門をたたき
夕べには肥えた馬の後塵を拝するしまつ
飲み残しの酒 冷えた焼き肉を与えられ
到るところで悲しみと辛さをかみしめています
近ごろ主上のお召しを受け
一挙に伸びようと思ったが
青空にはばたくどころか 翼をたれ
よろめいて自由に泳ぐこともできません

 都での就職活動の辛さです。「驢に騎ること三十載」というのは、詩人のわびしい暮らしの例えとして用いられる常套句です。
 親戚の「おじ」への甘えからか、飲み残しの酒や冷えた焼き肉を与えられ、みじめな屈辱的な生活をしていることを包み隠さずに言っています。「主上に頃ろ徴され」というのは、制挙に応じたことをいうのでしょう。これに合格して一挙に政事の世界に躍り出ようとしたけれども、「青冥 却って翅を垂れ 蹭蹬として鱗を縦ままにする無し」と、いまだに不自由な浪人ぐらしを強いられていると訴えます。

 甚愧丈人厚     甚はなはだ愧ず 丈人じょうじんの厚きに
 甚知丈人真     甚だ知る 丈人の真しんなるを
 毎於百寮上     毎つねに百寮ひゃくりょうの上に於いて
 猥誦佳句新     猥みだりに佳句かくの新たなるを誦しょう
 窃効貢公喜     窃ひそかに貢公こうこうの喜びに効ならうも
 難甘原憲貧     原憲げんけんの貧ひんに甘んじ難がた
 焉能心怏怏     焉いずくんぞ能く心こころ怏怏おうおうとして
 祗是走踆踆     祗だ是れ走りて踆踆しゅんしゅんたらん
おじ上の厚情をありがたいと思い
おじ上の真心もよくわかっています
いつも多くの役人の前で
つたない詩句の新しさをほめてくださる
おじ上が重要な地位に就かれたのを心から喜んでおり
原憲のような貧しさには耐えられません
不満と焦躁の心を抱き
どうしていたずらに走りまわっていられましょう

 「おじ」韋済いさいへの依頼です。
 「丈人」(おじ上)が自分を認め、いつも多くの役人の前で自分の詩句の新しさを褒めてくださっているのはありがたいと、まずお礼を述べます。「窃かに貢公の喜びに効うも」は故事を踏まえており、前漢のころ貢禹こううの親友の王吉おうきつが任官すると、貢禹は自分も任用される希望が出てきたと、冠のほこりを払って喜んだという話です。
 つまり杜甫は、韋済の出世によって自分も任用の希望が出てきたと、暗に推薦の依頼をしているのです。
 「原憲」も漢代の人物で、若いころ貧乏でしたが、そのころ冷たかった親戚を後に出世をしてから招待して見返してやりました。
 いろいろと故事をあげながら、これ以上みじめに走りまわっているのには耐えられませんと、苦衷を訴えます。

 今欲東入海     今 東のかた海に入らんと欲し
 即将西去秦     即ち将まさに西のかた秦しんを去らんとす
 尚憐終南山     尚お憐あわれむ 終南しゅうなんの山
 回首清渭濱     首こうべを回めぐらす 清渭せいいの濱ひん
 常擬報一飯     常に一飯いっぱんにも報むくいんと擬
 況懐辞大臣     況いわんや大臣に辞するを懐おもうをや
 白鷗没浩蕩     白鷗はくおう 浩蕩こうとうに没ぼつせば
 万里誰能馴     万里 誰たれか能く馴らさん
これから東の海に乗り出そうと思い
西のかた秦を去ろうと考えていますが
なお終南山に未練がのこり
清らかな渭水の岸辺を振りかえります
いつも一飯のご恩に報いたいと思っているのに
大臣にいとまを請うのは辛いことです
白鷗も ゆれる波間に姿を消せば
万里の彼方 誰も飼い馴らすことはできないのです

 哀訴と居直りのような結びです。杜甫はあきらめて都を捨てようかと思うこともありますが、なお終南山(長安の南にあり、宮仕えというのに等しい)に未練もあり、渭水(長安の北を流れており、都というのに等しい)を振りかえらずにはいられないと訴えます。
 お力添えがあれば、きっとご恩に報いるつもりですとも懇願します。
 そして、ひとたび都を出てしまったら、自分は白鷗のような自由の身になって、二度と官途をめざすことはないでしょうと、脅迫めいたことまで口にします。杜甫は必死でした。
 尚書左丞(正四品上)は尚書省六部を束ねる都省としょうの次官で、左丞は六部のうち吏部・戸部・礼部の担当ですので、韋済は官吏の任用を左右する権限の中枢に就いたことになります。
 杜甫が期待するのも当然です。杜甫は吉報があるものと信じて待っていましたが、年末になってもなんの音沙汰もありませんでした。
 おそらくは制挙を受けて不合格とされたことが、かえって障害になったのでしょう。李林甫は制挙の結果を「野に遺賢なし」と奏上しています。だから詩文の才で任用を推薦するのは、李林甫の顔をつぶすことになるのです。
 李林甫はすでに政府高官の地位を自由に変えるだけの権力を握っていましたので、韋済も手の施しようがなかったと思われます。
 痺れを切らした杜甫は、天宝八載(七四九)になると妻子をともなって洛陽にもどってしまいました。

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