陪諸貴公子丈八溝携妓納涼晩際遇雨二首其一 杜 甫
 諸貴公子の丈八溝に妓を携えて涼を納るるに陪し 晩際 雨に遇う


   落日放船好     落日 船を放つに好よろしく
   軽風生浪遅     軽風 浪なみを生ずること遅し
   竹深留客処     竹は深し 客を留とどむるの処
   荷浄納涼時     荷はすは浄きよし 涼りょうを納るるの時
   公子調氷水     公子は氷水ひょうすいを調ととの
   佳人雪藕糸     佳人かじんは藕糸ぐうしを雪ぬぐ
   片雲頭上黒     片雲へんうん 頭上ずじょうに黒し
   応是雨催詩     応まさに是れ 雨の詩を催うながすなるべし
夕陽は落ちて 船を出すのにちょうどよい
微風が吹いて 波はゆるやかに揺れている
客待ちの岸に 鬱蒼と竹がしげり
夕涼みの時刻 蓮は清らかに咲いている
貴公子たちは 氷をいれた水を用意し
妓女たちは 蓮糸を綺麗に洗っている
頭上に一面 雨雲が黒くたちこめ
これはきっと 詩を作れと促しているのだ

 杜甫は李白と別れて洛陽にもどると、その年の内か、翌年の正月には長安に出たと思われます。長安に出るとすぐ天宝五載(七四六)のはじめに、杜甫は妻を迎えたと思われます。
 当時の士家の長子の結婚に親が関与しないはずはありませんので、父杜閑が縁組の手はずをととのえていて、杜甫はそれに従ったのでしょう。杜甫はすでに三十五歳になっており、杜家の後嗣として、いつまでも詩的放浪の生活をつづけていることは許されなかったのです。
 杜甫の妻は司農少卿楊怡よういの女むすめで、司農は司農寺、つまり農業のことをつかさどる実務担当役所の少卿(従四品上:次官)の娘ですので、任官もしていない身分の杜甫としては高級官僚の娘をもらったことになります。
 妻の楊氏は、杜甫よりは十歳年少であったとみられていますので、結婚のとき二十五歳くらいになっていたことになります。
 当時の女性としては、相当の晩婚ということになります。
 杜甫は結婚すると、長安にとどまって任官のための運動をはじめました。都のしかるべき人を頼って詩を献じ、機会があれば推薦してほしいと依頼して歩くのです。これは当時、一般に行われていた任官のための就職運動で、誰でもがやっていたことです。
 奉天県の県令であった父親の援助にたよる新婚生活であったと思われますが、杜甫はできるだけ交際の輪を広くして、求められれば貴公子たちの舟遊びの場にも出かけてゆきました。
 詩題にある「丈八溝」は長安の南にあった運河で、五月の暑い日の夕暮れから貴公子たちが納涼を兼ねた船遊びに出かけるのです。
 其の一の詩は出発の準備のようすで、公子たちはみずから氷をいれた飲み物を用意し、「佳人」(妓女たち)は「藕糸を雪う」とありますが、藕糸は蓮の糸のことで、蓮を材料にした酒の肴でも準備しているのでしょう。かなりくだけた遊宴であることが窺われます。
 結びの二句では空模様が急にあやしくなって、雨雲が広がってきます。杜甫は雨が降って宴会が順調に運ばないときは、そのときこそ詩人の出番であると、内心では雨になるのを望んでいるようです。



 陪諸貴公子丈八溝携妓納涼晩際遇雨二首 其二 杜 甫
 諸貴公子の丈八溝に妓を携えて涼を納るるに陪し 晩際 雨に遇う


   雨来霑席上     雨 来たって席上を霑うるお
   風急打船頭     風 急にして船頭せんとうを打つ
   越女紅裙湿     越女えつじょ 紅裙こうくん湿うるお
   燕姫翠黛愁     燕姫えんき 翠黛すいたいうれ
   䌫侵堤柳繋     䌫ともずなは堤柳ていりゅうを侵して繋
   幔卷浪花浮     幔まんは浪花ろうかを卷いて浮かぶ
   帰路翻蕭颯     帰路きろかえって蕭颯しょうさつ
   陂塘五月秋     陂塘ひとう 五月 秋なり
雨が突然降ってきて 宴席は水びたし
風は激しく吹いて 舳先を鳴らす
越の妓女は 紅の裳裾を濡らし
燕の歌姫は 美しい眉をひそめて困惑する
堤防の柳の木に䌫をしっかり繋ぎ
幔幕は 浪のしぶきを巻いて翻る
雨のおかげで 帰路はかえって爽やかだ
水辺の堤は夏五月 秋が来たかと思われる

 二首の五言律詩は、時間の経過を追ったつづきものになっており、其の二では急に雨が降ってきます。船中の宴会の混乱するようすが描かれ、着飾った妓女たちはびしょ濡れになります。
 船は堤防の柳に繋ぎとめられ、宴会は中止です。
 結びの二句をどのように解釈するのか。杜甫は表面的には急雨に遇って中止になった宴会の参加者を慰めているように見えます。
 しかし、皮肉に考えると、遊宴が中止になって、杜甫は心のなかでは喜んでいるようにも受け取れます。
 杜甫は詩人としての誇りを犠牲にして、若い貴公子たちの舟遊びにつきあい、詩を書いて宴会に興を添える。
 こうしたことも任官のための努力のひとこまです。
 みじめな思いをすることもあったと思いますが、杜甫は我慢を重ねながら任官の機会の到来を願っていたのです。


 貧交行          貧交行      杜 甫
 翻手作雲覆手雨   手を翻せば雲と作り 手を覆くつがえせば雨
 紛紛軽薄何須数   紛紛(ふんぷん)たる軽薄 何ぞ数うるを(もち)いん
 君不見管鮑貧時交 君見ずや 管鮑かんぽう 貧時ひんじの交わりを
 此道今人棄如土   此の道 今人きんじん 棄てて土の如し
掌を上に向けると雲となり 下に向ければ雨となる
あちらこちらの軽薄さは 数え切れないほどだ
見たまえ 貧しいときの管仲と鮑叔牙の交わりを
今の人は あの徳を泥土のように棄てて顧みない

 「奉儒守官」を人生の目的とする杜甫は、任官の機会を得られないまま四十歳になっていました。天宝十載(七五一)正月に、杜甫は延恩匭えんおんきに「三大礼の賦」とそれに付した表(上書)を投じました。
 延恩匭というのは、大明宮の東西南北、四つの門に設けられた投書箱で、一般の民が天子に意見を述べるものです。
 杜甫は直接天子に訴えて、自分を知ってもらおうと投書に頼ったのでした。「三大礼の賦」は玄宗の政事を礼賛するものでしたので、天子の目にとまったらしく、杜甫はほどなくして集賢院待制しゅうけんいんたいせいに任じられました。集賢院は宮中の図書寮ですが、待制というのは御用掛り候補といった意味です。
 順番が来れば選考・登用の機会が与えられるという程度のものです。それでも、杜甫は期待しましたが、春が過ぎても夏が過ぎても呼び出しはありませんでした。
 杜甫は自分が当てにしている人の好意というものが、いかに当てにならないものであるかを、しみじみと知ることになります。
 詩題の「行」というのは歌という意味で、転句は八言になっています。
 杜甫は人々の言行不一致を絶妙な比喩を用いて詠っています。
 「管鮑 貧時の交わり」というのは、春秋時代の有名な故事ですので、ご存じの方が多いと思います。杜甫は斉の鮑叔牙と管仲のような麗しい人の道は、いまは棄てて顧みられなくなったと嘆くのです。

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