畫鷹           画 鷹    杜 甫
素練風霜起     素練それん 風霜ふうそう起こり
蒼鷹画作殊     蒼鷹そうよう 画作がさくことなり
㩳身思狡兎     身を㩳そびやかして狡兎こうとを思い
側目似愁胡     目を側そばだてて愁胡しゅうこに似たり
絛鏇光堪擿     絛鏇とうせん 光 摘むに堪
軒楹勢可呼     軒楹けんえい 勢い呼ぶ可し
何当撃凡鳥     何いつか当まさに凡鳥ぼんちょうを撃ちて
毛血灑平蕪     毛血もうけつ 平蕪へいぶに灑そそぐべき
白絹の画面から 風や霜が吹き起こるほど
鷹の絵の出来は すばらいい
肩をいからせ すばしこい兎を狙っているのか
睨んでいる眼は もの思う胡人の目のようだ
足をつなぐ環は 手でつまめるほどに光っており
軒端から呼べば 飛び出して来そうな勢いがある
いつかきっと つまらぬ鳥たちに襲いかかり
羽毛や鳥の血を 平原に撒き散らすであろう

 杜甫は開元二十九年(七四一)のはじめに斉趙の旅から洛陽にもどり、河南府偃師えんし県の北郊、首陽山しゅようざん下の尸郷亭しごうていに陸渾荘りくこんそうを営みました。陸渾荘を地名とする説もありますが、杜甫は家宅の名のように用いています。
 地名をもって家をいうことは現在でも行われていますので、いずれとも決め難いのですが、杜甫はその家を「尸郷の土室」と呼んでいます。
 したがって、窰洞ヤオトンであったことは確実です。
 家を構えたことから、杜甫はこの年に妻を迎えたとする説が有力です。しかし、子供の生年からすると、結婚はもう少し後のことと思われます。杜甫は三十歳になっていますので、そのころ病気になっていたと思われる仁風里の「おば」の家に、いつまでも厄介になってはいられなかったのでしょう。開元は二十九年で終わり、翌年は天宝と改元されますが、天宝元年に洛陽の「おば」が亡くなり、杜甫は墓誌銘を作って丁寧に葬ります。杜甫の毎日は「尸郷の土室」から洛陽に出かけていって知友と交わり、権貴の邸宅に招かれて詩を贈ったりすることです。
 こうした交際は官途へ近づくための方法として、当時の知識人の誰もがやっていたことです。
 「画鷹」がようはそうした交際の詩、題画詩のひとつです。
 唐代の絵画は壁画が主流ですが、このころから「素練」(白い練り絹)に絵を描くことがはじまっていたようです。
 題画詩は絵の余白の部分に、その絵にちなんだ詩を書きつけるもので、杜甫の詩は画中の鷹を描いてみごとです。
 例によって前二句、中四句、後二句の形式になっており、中四句の鷹の描写に杜甫の才能の鋭さがうかがわれます。


房兵曹胡馬詩    房兵曹の胡馬の詩 杜 甫
胡馬大宛名     胡馬こば 大宛たいえんの名
鋒稜痩骨成     鋒稜ほうりょう 痩骨そうこつ成る
竹批双耳峻     竹批いで 双耳そうじするど
風入四蹄軽     風入って 四蹄していかろ
所向無空闊     向かう所 空闊くうかつ無く
真堪託死生     真に死生しせいを託するに堪えたり
驍騰有如此     驍騰ぎょうとうかくの如き有らば
万里可横行     万里 横行おうこうす可し
この西域の馬は 大宛の誉れを担う
全体の骨組みは 鋭く尖って引き締まる
両方の耳は 竹を削いだように鋭く立ち
四つの蹄は 風に吸われるように軽々とゆく
ゆくところ 可ならざるはなく
まことに 生命を託するに足りる
これほど勢いのある元気な馬があれば
万里の彼方へ 自由自在にゆけるであろう

 房兵曹ぼうへいそうは伝不明の人物ですが、洛陽にいた友人のひとりでしょう。房兵曹は名馬を所有していて、杜甫はその馬の美点を五言律詩に詠います。例によって二・四・二の句分けになっており、はじめの二句で馬が大宛(フェルガーナ)種の駿馬で、贅肉のないひきしまった体をしていると描きます。
 中四句の第一句「竹批いで 双耳峻く」は名句とされており、蹄は風を吸うように軽々と空をけってゆくと、斬新で無駄のない表現で馬のすぐれていることを幻想的に描きます。
 そして、こんな馬ならば死生を託するに足りると褒めちぎるのです。結びの二句は、この馬さえあれば君の人生は自由自在に伸びてゆくであろうと祝福の言葉を贈っています。

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