壮 遊          壮 遊     杜 甫
往者十四五     往者むかし十四五
出遊翰墨場     出でて翰墨かんぼくの場にわに遊ぶ
斯文崔魏徒     斯文しぶんなる崔魏さいぎの徒
以我似班揚     我を以て班揚はんように似たりとす
七齢思即壮     七齢しちれいにして思い即ち壮そうなり
開口詠鳳凰     口を開きて鳳凰ほうおうを詠ず
九齢書大字     九齢きゅうれいにして大字だいじを書し
有作成一囊     作さく有りて一囊いちのうを成
かつて十四五歳のとき
文学の世界に乗り出した
学者の崔尚や魏啓心らは
班固・揚雄のようだと私をほめる
詩文への思いは七歳にして壮んとなり
鳳凰の詩を口ずさんだ
九歳のときには立派な字を書き
作品は成って囊ふくろにみちた

 杜甫は玄宗皇帝が即位した先天元年(七一二)に生まれました。
 李白よりは十一歳の年少です。
 杜甫の先祖については詳しい研究がありますので、ここでは杜甫の曽祖父杜依芸といげいが唐代に官途につき、河南道河南府鞏県(河南省鞏県)の県令になったことから述べておきましょう。
 祖父杜審言しんげん、父杜閑、その子杜甫は鞏県きょうけんの曽祖父の家を本貫として世に出ました。
 祖父杜審言は則天武后のときに尚書省膳部員外郎(従六品上)に任ぜられ、詩人としても有名でしたが、神龍元年(七〇五)の政変のときに失脚して峰州(ベトナム)に流されました。
 後に許されて都に還りますが、従六品上より上には上れませんでした。杜甫の生まれた家は現在の鞏県から東北へ一二㌔㍍ほど行った城関という町にあり、ここが旧鞏県城の地と言われています。
 町の郊外に南瑶湾なんようわんという集落があり、黄土の崖に穿たれた土室(窰洞ヤオトン)が杜甫の生家として保存されているそうです。
 杜甫の母崔氏は唐の宗室の血を引く女性ですが、母方の祖母が政変によって没落した皇族の家の出であったという関係です。
 母崔氏は杜甫が四歳のころには亡くなり、継母に育てられた時期があったようです。杜甫のすぐ下の弟杜頴とえいは生母の氏が不明ですので、異母弟になると思われます。
 杜甫は八歳のころには、洛陽に住んでいた「おば」二姑アルクーに預けられ、洛陽城内の仁風里で育ったようです。
 杜甫の幼時の記録は残されていませんが、杜甫が五十五歳のときに夔州(四川省奉節県)で書いた自伝的五言古詩があり、五十五歳の目で見た幼時の杜甫が語られます。
 この詩「壮遊」そうゆうによると杜甫は七歳で詩文に目ざめ、九歳のときには「大字」(立派な正式の文字と解します)を書き、作品は袋に満ちるほどであったと言っています。
 十四五歳のときには文人の仲間入りをして、先輩の知識人からほめられるような作品を書いたとあります。しかし、杜甫の少年時から三十歳近くまでの作品は一切残されていません。
 杜甫自身が未熟な作品として廃棄したものと思われます。

性豪業嗜酒     性は豪ごうにして業すでに酒を嗜たしな
嫉悪懐剛腸     悪を嫉にくみて剛腸ごうちょうを懐いだ
脱落小時輩     脱落だつらくして時輩じはいを小いやしみ
結交皆老蒼     交こうを結ぶは皆みな老蒼ろうそうなり
飲酣視八極     飲いんたけなわにして八極を視れば
俗物多茫茫     俗物ぞくぶつ多く茫茫ぼうぼうたり
性格は豪放ではやくも酒を嗜み
心は剛直で悪をにくんだ
同年の小さな輩やからは眼中になく
交際するのは みな年上の人だった
酔いがまわって世界の隅々を眺めると
俗物がのさばり広がっている

 開元十三年(七二五)には、杜甫は十四歳になっています。
 この年の十一月、玄宗は泰山に行幸して封禅の儀を執り行いました。皇帝の車駕はまず洛陽に入って祝賀の諸行事が行われ、行列の準備がととのえられます。
 河南道の諸州からは準備のために人や物資があつまり、州刺史をはじめ諸役人が入都して、洛陽は空前の賑わいを呈したことでしょう。
 そんな中で、杜甫は崔尚さいしょうや魏啓心ぎけいしんらの知識人と知り合い、才能を認められました。
 崔・魏の二人は共に進士及第者で河南道内の州府の若い官吏でした。十代の後半になると、早熟な杜甫は同年配の者と話が合わず、もっぱら年長者と交際していたと言っています。杜甫は洛陽の盛り場に出入りして、酒も嗜むと言えるほどに飲み、酔えばあたりを見まわして、俗物どもがうごめいていると、世の中を見下していました。

 東下姑蘇台     東 姑蘇台こそだいに下れば
 已具浮海航     已すでに浮海ふかいの航こうの具そなえあり
 到今有遺恨     今に到るも遺恨いこん有るは
 不得窮扶桑     扶桑ふそうを窮きわむるを得ざりしこと
 王謝風流遠     王謝おうしゃの風流ふうりゅうは遠く
 闔閭丘墓荒     闔閭こうりょの丘墓きゅうぼは荒れたり
 剣池石壁仄     剣池けんちの石壁せきへきは仄かたむ
 長洲芰荷香     長洲ちょうしゅうの芰荷きかは香んばし
 嵯峨閶門北     嵯峨さがたる閶門しょうもんの北
 清廟映迴塘     清廟せいびょうは迴塘かいとうに映ず
 毎趨呉太伯     呉の太伯たいはくに趨もうずる毎ごと
 撫事涙浪浪     事ことを撫しのびて涙は浪浪ろうろうたり
東のかた 姑蘇台に向かい
海上をゆく船の用意もした
いまでも残念に思うのは
東海の扶桑の国へ行かなかったことだ
晋の王導や謝安の風流は遠くへだたり
呉王闔閭の墓は荒れていた
剣池には 石の壁がかたむきかかり
長洲苑には菱や蓮の花が匂っている
高く聳える閶門の北
清らかな廟が まわりの池に影をさす
呉太伯の塚に参るたびに
昔を想って涙はつきない

 開元十九年(七三一)に杜甫は二十歳になり、呉越の旅に出ます。
 当時、蘇州の北(洛陽からすれば蘇州の手前になります)四〇㌔㍍弱の常熟県(江蘇省常熟県)に「おば」のひとりが住んでいて、杜甫はまず「おば」の家を訪ねたでしょう。
 そのあと蘇州や蘇州周辺の呉の遺跡を歩きまわり、南都建康(江蘇省南京市)まで足を伸ばしたようです。
 詩は四句ずつひとまとめになっていますので、呉の地方に関する十二句をひとつにまとめました。はじめの四句は「姑蘇台」に登って東の海に思いをはせたこと、つぎの四句は建康の「王謝の風流」の跡を見たこと、呉王「闔閭の丘墓」の荒れたようす、蘇州郊外虎丘にある「剣池」や漢の呉王劉鼻の「長洲(苑)の芰荷」といった蘇州周辺の名所旧跡をめぐったこと、三番目の四句はそのころ蘇州の閶門(蘇州城の西北門で正門に当たります)の北にあった呉の祖太伯の廟に幾度も詣で、そのたびに涙が流れたことを詠っています。

 蒸魚聞匕首     蒸魚じょうぎょの匕首ひしゅを聞く
 除道哂耍章     除道じょどうせしめて耍章ようしょうを哂わら
 枕戈憶勾踐     戈を枕にせし勾踐こうせんを憶い
 渡浙想秦皇     浙せつを渡りては秦皇しんのうを想う
 越女天下白     越女えつじょは天下に白く
 鑑湖五月涼     鑑湖かんこは五月も涼し
 剡渓蘊秀異     剡渓せんけいは秀異しゅういを蘊つつ
 欲罷不能忘     罷めんと欲すれど忘る能あたわず
魚腹に匕首を隠した専諸の故事を聞き
故郷に錦を飾る朱買臣の話をおかしく思う
戈を枕にした越王勾踐のことを憶い
浙江を渡れば始皇帝の昔を想う
越の女は天下に聞こえた色白の美人
鑑湖のあたりは五月であるのに涼しいと感ずる
剡渓には山水の奇勝があつまり
想い出は忘れようとしても忘れられない

 呉の地でゆっくり滞在したあと、杜甫は越えつへ向かいます。
 杜甫には常熟県の「おば」のほかに武康県(浙江省湖州市)で県尉をしている「おじ」の杜登がいました。武康は太湖の南にありますので、越州(浙江省紹興市)へゆく途中、杜登の家に立ち寄って呉の刺客専諸せんしょや漢の朱買臣しゅばいしんの秘話を聞いたのかもしれません。
 武康から南へ余杭(浙江省杭州市)をへて銭塘江を渡るとき、かつてここを秦の始皇帝が渡ったことを思い出します。
 越州にはいると、若い杜甫は色白の美人が多いことに目をとめます。美女西施せいしの伝説があるので、杜甫も越の美女には期待していたのでしょう。「鑑湖」かんこは越州山陰県にある湖で、南国の五月というのに涼しい風が吹いていると気持ちよさそうです。そこからさらに、杜甫は南の山間にはいり、名勝の剡渓せんけいまで足を延ばしたようです。

 帰帆払天姥     帰帆きはんは天姥てんぼを払い
 中歳貢旧郷     中歳ちゅうさいにして旧郷より貢こうせらる
 気劘屈賈塁     気は屈賈くつかの塁るいを劘けず
 目短曹劉墻     目は曹劉そうりゅうの墻しょうを短たんとす
 忤下考功第     忤さからいて考功こうこうの第だいより下
 独辞京尹堂     独り京尹けいいんの堂どうを辞す
帰りの船は 天姥の峰をかすめてゆき
若年を過ぎて貢挙に推薦される
意気は屈原・賈誼の才能に挑み
曹植・劉楨をも見くだすほどだ
考功員外郎の意に副わず
落第してひとり京兆尹の政堂を辞す

 「壮遊」の詩をたどっていくと、杜甫はもっぱら名所旧跡をたどりながら観光旅行をしているようにみえます。
 しかし、江南旅行は四年にもわたる長期の旅です。
 杜甫はその間をただ遊んで過ごしていたのではなく、移動しながら各地の寺院に滞在し、寺院の所蔵する書巻を読んだり、書写したりして勉学に励んでいたと思われます。
 当時は書物は貴重品で、一般の家にあるというものではなく、宮廷か民間では寺院などに所蔵されていました。
 だから当時の若者は寺院に籠もって勉学をするのが普通でした。
 江南は南朝文化の栄えた土地でしたので、北朝の都であった洛陽よりも文化遺産は豊富であったと思われます。
 開元二十二年(七三四)の冬、杜甫は剡渓(「天姥」は剡中にある山)から鞏県にもどり郷試ごうしを受けて及第したようです。
 このことは詩には書かれていませんが、杜甫にとっては書くほどのこともない当然のことだったのでしょう。
 翌開元二十三年の春、二十四歳のときに貢挙こうきょを受験します。
 貢挙は長安で行われるのが通例ですが、この年は二十一年に関中一帯が大雨になり、食糧不足に陥ったため、二十二年の正月から玄宗以下の朝廷は洛陽に移動していました。
 食いつなぐための臨時の移動です。
 試験は洛陽の崇業坊にあった福唐観という道教の寺院で行われました。詩中で杜甫は屈原や賈誼、曹植や劉楨の名を持ち出して自信満々のようでしたが、落第してしまいました。
 この年の進士合格者は二十七名であったそうです。
 詩中に「考功」とあるのは尚書省吏部の考功員外郎(従六品上)のことで、礼部侍郎(正四品上)が知貢挙(貢挙の責任者)になるのは開元二十四年からです。自信家の杜甫は考功員外郎程度の者から採点されて落ちたのでは、不満だったかも知れません。
 しかし、落第したのでは都を退くほかはありません。

 放蕩斉趙間     斉趙せいちょうの間かんに放蕩ほうとう
 裘馬頗清狂     裘馬きゅうばすこぶる清狂せいきょうなり
 春歌叢台上     春は叢台そうだいの上に歌い
 冬猟青丘旁     冬は青丘せいきゅうの旁かたわらに狩す
 呼鷹皂櫪林     鷹たかを皂櫪そうれきの林に呼び
 逐獣雲雪岡     獣じゅうを雲雪うんせつの岡に逐
 射飛曾縦鞚     飛を射んとして曾すなはち鞚こうを縦はな
 引臂落鶖鶬     臂ひじを引きて鶖鶬しゅうそうを落す
 蘇侯拠鞍喜     蘇侯そこうは鞍くらに拠りて喜び
 忽如携葛彊     忽たちまち葛彊かつきょうを携たずさうるが如し
それから斉趙の間を気ままに歩き
軽裘肥馬けいきゅうひば 放逸の限りをつくした
春は叢台の上で歌を吟じ
冬は青丘のかたわらで狩りをする
いちいの林で鷹を呼び
降りつむ雪の岡で獣けものを追う
手綱たづなを放して飛鳥をねらい
弓をしぼって鶖鶬を射落とす
友人の蘇預は鞍を寄せてよろこび
葛彊が山簡に従うような親しさである

 開元二十五年(七三七)になると、杜甫は斉趙への旅に出ました。
 江南のつぎは東方を旅する予定だったのかもしれません。
 詩によれば、杜甫は馬に乗ってまず戦国趙の都邯鄲かんたんに行き、「叢台」に登って武霊王の昔をしのびます。それから東の斉地に向かうのですが、邯鄲と斉の旧都臨淄りんしまでは三五〇㌔㍍も離れており、春から冬へかけてゆっくりと旅をして行ったのでしょう。
 旅の友は「蘇侯」と書かれていますが、杜甫の自注によると蘇預そよ(後に改めて源明)のことで、このとき監門の冑曹参軍事ちゅうそうさんぐんじ(兵器庫係)でした。ふたりは「青丘」で狩りをしますが、「青丘」は青州(山東省益都県)の丘とみられます。蘇預が馬を寄せてきて杜甫の弓の腕前を褒めるのを、杜甫は晋の将軍山簡さんかんが部下の葛彊かつきょうを褒めるのに例えて、親しみをあらわしています。蘇源明はこのあとも、杜甫の生涯の友のひとりとして交流する人物です。

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