聞李太尉大挙秦兵百万出征東南 懦夫請纓
 冀申一割之用 半道病還留別金陵崔侍御 十九韻

   李太尉が秦兵百万を大挙し出でて東南を征すると聞き
   懦夫は纓を請い一割の用を申べんと冀う。
   半道病みて還り金陵の崔侍御に留別す 十九韻 李 白
秦出天下兵     秦しんは天下の兵を出し
蹴踏燕趙傾     蹴踏しゅくとうして燕趙えんちょうを傾く
黄河飲馬竭     黄河は馬に飲ませて竭
赤羽連天明     赤羽せきうは天に連なって明らかなり
太尉杖旄鉞     太尉たいい 旄鉞ぼうえつを杖つき
雲旗繞彭城     雲旗うんき 彭城ほうじょうを繞めぐ
三軍受号令     三軍さんぐん 号令を受け
千里粛雷霆     千里せんり 雷霆らいていを粛つつし
長安の政府は 天下の兵を出し
燕趙の賊を追いはらう
黄河の水は 馬に飲ませて干上がり
軍旗は天につらなって明らかである
李太尉は 采配を振るって軍を指揮し
軍旗は 雲のように彭城を取り巻く
三軍の将兵は 号令を受け
千里の間は将軍の威に服している

 上元三年(七六二)の春、安史の乱はまだ終息していませんでした。
 ところがその年の夏四月、玄宗上皇が七十八歳で亡くなり、あとを追うように粛宗が五十二歳の若さで亡くなりました。
 唐朝としては思いがけないことで、皇太子李豫が即位して代宗となり、四月に宝応と改元されました。
 病の癒えた李白が金陵に出て来て崔太守に暇を告げ、送別の宴が催されたのは宝応元年の秋のことです。
 天宝六載以来交流のあった崔四侍御は、このとき罪を許されて昇州(金陵)の太守(刺史)になっていました。
 だから詩中では「太守」と呼ばれています。
 はじめの八句のうちまず四句は、安史の乱の経過のなかで安慶緒(安禄山の後嗣)の軍を燕趙(河北方面)に撃退した経緯を簡単に描写します。主眼はあとの四句で、李光弼が臨淮から兵を出して彭城(江蘇省徐州)を包囲し、威令は千里の間に及んでいると李光弼の征旅を褒める部分です。李白はこの戦に参加するつもりで出かけ、途中で病気になって引き返したのです。
 長文の詩題にもその経緯が述べてあります。

 函谷絶飛鳥     函谷かんこくは飛鳥ひちょうを絶
 武関擁連営     武関ぶかんは連営れんえいを擁よう
 意在斬巨鼇     意は巨鼇きょごうを斬るに在り
 何論鱠長鯨     何ぞ長鯨ちょうげいを鱠かいにするを論ぜんや
 恨無左車略     恨うらむらくは 左車さしゃの略りゃく無く
 多愧魯連生     多く愧ず 魯連生ろれんせい
 払剣照厳霜     剣を払って厳霜げんそうを照らし
 彫戈縵胡纓     彫戈ちょうか 縵胡まんこの纓えい
 願雪会稽恥     願わくは会稽かいけいの恥を雪すす
 将期報恩栄     将まさに恩栄おんえいに報むくゆるを期せんとす
函谷関は 飛ぶ鳥も越えられず
武関は兵営をつらねて守っている
目的は 巨魁を斬ることにあり
賊兵どもを鱠なますにすることではない
残念なのは われに李左車の策なく
魯仲連の弁舌がないことを愧じる
剣を抜いて 霜のような刃を光らせ
戈を手にし 冠は無地の紐でむすぶ
願うのは 会稽の恥をすすぎ
君王の御恩と栄誉に報いること

 詩題にもあるように、李太尉(李光弼)が東南の地方(都から見て東南で商丘・徐州方面)を征すると聞いて、李白がそれに参加しようとしたときの決意を述べるものです。
 都は潼関(漢代の函谷関を用いています)と武関の要害で守り、目的は賊の巨魁(首領)を斬ることにある。
 しかし、自分には李左車りさしゃの策がなく、魯仲連ろちゅうれんの弁舌がないことを恥じると謙遜しています。
 李左車は楚漢戦争時代の趙の策士、魯仲連は戦国時代の謀士です。だから自分は剣を抜き戈(ほこ)を手にして、つまり一兵士になって都に攻め込まれた恥(会稽の恥)をすすぎ、君恩に報いたいと思ったのだと述べるのです。

 半道謝病還     半道はんどう 病を謝して還かえ
 無因東南征     東南に征するに因よし無し
 亜夫未見顧     亜夫あふに未だ顧かえりみられず
 劇孟阻先行     劇孟げきもうは先行せんこうを阻はばまれる
 天奪壮士心     天は壮士そうしの心を奪い
 長吁別呉京     長吁ちょうくして呉京ごきょうに別る
 金陵遇太守     金陵きんりょう 太守に遇
 倒屣欣逢迎     屣を倒さかしまにして欣んで逢迎ほうげい
 群公咸祖餞     群公ぐんこうな祖餞そせん
 四座羅朝英     四座しざ 朝英ちょうえいを羅つら
だが 道半ばにして病のために還り
東南に行くことができなくなった
周亜夫に見い出されないうちに
劇孟は先へ進むことができなくなった
天は 壮士の志を遂げさせないので
深い嘆きとともに呉の都を去る
金陵の崔太守を訪ねると
くつをあべこべに履いて飛び出してきた
名士たちが揃って送別の宴を張り
会場には多くの方々が列席された

 まず道半ばにして病のために李光弼の陣に行けなくなったことを述べます。周亜夫しゅうあふは漢代の武将、劇孟げきもうは遊侠の親分で、呉楚七国の乱のときに武功があったことで有名です。
 李白は李光弼を周亜夫に自分を劇孟に擬して、劇孟のように役に立てなかったことを歎いています。天は自分に志を遂げさせないので、呉の都(金陵)を去る決心をして崔太守を訪ねると、崔太守はおおあわてで出てきて送別の宴を催してくれることになりました。
 「屣を倒にして欣んで逢迎す」というのは親しみの諧謔でしょう。
 送別会の会場には多くの友人知己が列席し、李白はそのことに厚く感謝の言葉を述べています。

初発臨滄観     初め臨滄観りんそうかんに発し
酔栖征虜亭     酔うて征虜亭せいりょていに栖
旧国見秋月     旧国 秋月しゅうげつを見
長江流寒声     長江 寒声かんせいを流す
帝車信廻転     帝車 信まことに廻転し
河漢縦復横     河漢 縦 復た横
孤鳳向西海     孤鳳 西海せいかいに向かい
飛鴻辞北溟     飛鴻 北溟ほくめいを辞す
因之出寥廓     之これに因って寥廓りょうかくを出
揮手謝公卿     手を揮ふるって公卿こうけいに謝す
はじめは臨滄観で宴会をし
酔って征虜亭に移る
古都の秋月を眺め
長江は寒々とした音を立てる
空では北斗星が回転し 酔眼に
銀河は縦になり また横になる
孤鳳のように 私は西海に向かい
飛鴻のように 北の海に辞する
かくて 大空の広いところへ出ようと
手を振って諸公にお別れをするのである

 まず宴会の模様です。はじめは臨滄観というところで宴会があり、ついで征虜亭に席を移します。二次会にも招かれたのです。
 李白は酔って北斗星が回転し、銀河が縦になったり横になったりするほどだと詠います。
 このあたりは諧謔を弄して一座の人々を笑わせたのです。
 李白はこの期に及んでも詩人としてのサービス精神を忘れてはいません。最後の四句は別れの言葉です。
 「手を揮って公卿に謝す」と結んでいますが、李白がほどなくこの世を去ることを思うと、この結びの一句には胸をうたれるものがあります。

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