哭宣城善釀紀叟   宣城の善釀 紀叟を哭す 李 白


 紀叟黄泉裏
     紀叟きそう 黄泉こうせんの裏うち
 還応釀老春     還た応まさに老春ろうしゅんを釀かもすべし
 夜台無暁日     夜台やだいに暁日ぎょうじつ無し
 沽酒与何人     酒を沽りて何人なにびとにか与うる
老人の紀は あの世へ逝ってしまった
あの世でも 老春を醸しているに違いない
だが 死後の世界に夜明けはない
醸した酒を 誰に売ろうというのだろうか

 李白はひとりで酒を飲むのにも飽きると、上元二年(七六一)の春から冬へかけて、金陵を中心に宣城や歴陽(安徽省和県)など、なじみの城市を転々と歩きまわっていました。
 久しぶりに宣城に来てみると、行きつけの酒屋で酒つくりの上手だった紀という老人が亡くなっていました。
 「老春」ラオチュンというのは酒の名前で、春は新酒の季節ですので、中国では「春」という名のつく酒は多いのです。
 李白は紀老のために五言絶句を作って、その死を悼みました。


江南春懐       江南春懐    李 白
青春幾何時     青春せいしゅん 幾何いくばくの時ぞ
黄鳥鳴不歇     黄鳥こうちょう 鳴いて歇まず
天涯失郷路     天涯てんがい 郷路きょうろを失い
江外老華髪     江外こうがい 華髪かはつ老ゆ
心飛秦塞雲     心は飛ぶ 秦塞しんさいの雲
影滞楚関月     影は滞とどこおる 楚関そかんの月
身世殊爛熳     身世しんせいことに爛熳らんまん
田園久蕪没     田園でんえん 久しく蕪没ぶぼつ
歳晏何所従     歳としれて何の従う所ぞ
長歌謝金闕     長歌して金闕きんけつに謝しゃせん
鶯は鳴いてやまないが
春の盛りが いつまでつづくのか
生涯は尽きて 故郷への路を失い
江南の地で 老いの白髪が増すばかり
心は 都の雲上を駆けめぐるが
身は 楚関の月下に漂っている
一生を 思うがままに生き
田園は 荒れるままに任せている
老いて 拠り処とするものは何もない
高らかに詩を吟じて 長安と別れよう

 上元二年(七六一)の春、太尉兼中書令(正三品)の李光弼りこうひつは、北邙山(洛陽の北)で史思明軍と戦って大敗しました。
 勢いに乗った賊軍は陝州(河南省陝県)に攻め込んできましたが、三月になって思いがけないことが起こりました。
 史思明が息子の史朝義に殺されたのです。
 原因は安禄山のときと同じ後嗣のもつれからでした。
 史朝義は洛陽に入って大燕皇帝を自称します。
 政府としては反撃に出る好機でしたが、この年、関中は大飢饉となり、梓州(四川省三台県)では刺史の叛乱が起こるなどして、史朝義への反撃に出ることができませんでした。
 五月になって政府は李光弼を副元帥(元帥は皇族ですので事実上の軍の総指揮官)に任じ、八道の行営節度総司令として態勢を整え始めましたが、すぐに調うというわけにはいきません。
 一方、史朝義は政変後の政権を固めると、それまで両勢力の空白地帯になっていた宋州(河南省商丘市)方面に兵を向けます。
 史朝義は新皇帝として戦果を挙げ権威を高めようと、矛先を東に向けたのです。李光弼は兵を臨淮郡(安徽省泗県一帯)に集めて、東南へ進出してきた賊軍に兵を向けます。
 李光弼が臨淮の西北、彭城(江蘇省徐州市)・宋州方面へ兵を出したのは前後二回にわたると考えられ、上元二年の晩秋か初冬、それと翌宝応元年(七六二)の夏五月の可能性が高いとみられます。
 政府軍のこの動きをみた李白は、臨淮の李光弼軍に投じようと東へ向かいますが、途中で病気になって引き返してきました。
 李白はかねてから親しくしていた当塗とうと県令の李陽冰りひょうようのもとで病を養ったようですが、それは上元二年の冬から翌年の春にかけてのことと思われます。春になると病状はいくらか回復して、「江南春懐」の詩を作ったとみられます。
 李白は六十二歳になっており、自分の生涯をかえりみて「心は飛ぶ 秦塞の雲 影は滞る 楚関の月」、「歳晏れて何の従う所ぞ 長歌して金闕に謝せん」と諦めの境地を詠っています。

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