対酒酔題屈突明府庁
         酒に対して酔い 屈突明府の庁に題す 李 白
陶令八十日     陶令とうれい 八十日
長歌帰去来     長歌す 帰去来ききょらい
故人建昌宰     故人こじん 建昌けんしょうの宰さい
借問幾時迴     借問しゃもんす 幾時いくときか迴かえると
風落呉江雪     風は呉江ごこうの雪を落とし
紛紛入酒杯     紛紛ふんぷんとして酒杯しゅはいに入る
山翁今已酔     山翁さんおう 今 已すでに酔う
舞袖為君開     舞袖ぶしゅう 君が為に開かん
陶淵明は 八十日で辞職し
声高らかに 帰去来の辞を歌った
建昌県の県令殿
君はいつ古里くにへ帰るのか
風は呉江の雪を吹き散らし
酒杯の中へと降りしきる
山簡の翁は すっかり酔っぱらい
君のために 舞でも披露いたそうか

 李白も故郷に帰りたいと思うことはあったと思います。
 しかし、そのためには出世という条件が必要でした。
 李白にとって人生の敗残者として帰郷することは絶対に採りたくない選択肢であったと思います。このことは妻の実家、宗氏に対しても同様です。李白は冬のはじめまで尋陽にいて、尋陽から七〇`bほど南に下った建昌(江西省永修県の西北)に行き、そこで県令の屈突くつとつの世話になります。詩は李白が酒に酔って建昌県庁の壁に書きつけたもので、起句の「陶令」は陶淵明のことです。
 陶淵明は彭沢県の県令を八十日余で辞め、「帰去来の辞」を作って故郷に帰りました。いまの世はその時と同じように乱れているのに、屈突県令よ、あなたはいつ職を辞して故郷に帰るのかと尋ねています。
 酔余のことですが、李白は屈突県令を「故人」(親友)と呼んでいますので親しい仲であったのです。ところで問題は、建昌は妻のいる豫章の北四〇`bのところだということです。それほど近くに来ていながら、李白はなぜ一気に妻のもとにもどらないのでしょうか。
 私は妻を預けっぱなしにしている宗氏の家に対して、精神的にも金銭的にも土産になるようなものがなかったからではないかと考えています。夜郎流謫から放免されて、すぐ妻のいる豫章にもどらなかったのは、なんとかして官への糸口でもつかみ、それを土産に妻のもとにもどろうと思って努力したけれども、なんの成果も得られなかったからだと思います。要するに、手ぶらでは帰りにくかったのです。


 宿五松山下荀媼家  五松山の下の荀媼が家に宿す 李 白

 我宿五松下
     我 五松ごしょの下ふもとに宿し
 寂寥無所歓     寂寥せきりょうたのしむ所無し
 田家秋作苦     田家でんか 秋作しゅうさく苦しく
 隣女夜舂寒     隣女りんじょ 夜舂やしょう寒し
 跪進彫胡飯     跪ひざまずきて彫胡ちょうこの飯めしを進むれば
 月光明素盤     月光は素盤そばんに明るし
 令人慚漂母     人をして 漂母ひょうぼに慚じしめ
 三謝不能餐     三たび謝して餐さんする能あたわず
私は五松山の麓に泊めてもらい
侘びしい気持ちで 鬱ぎこんでいた
農家の秋は 穫り入れの仕事で忙しく
となりの女は 寒い夜更けに臼を搗いている
ひざまずいて 真菰ご飯を出してくれると
月のひかりは 素焼きの皿を明るく照らす
貧しい媼の もてなす心が身にしみて
幾度も礼を述べながら 食べることができなかった

 李白はそのころかなり生活に窮迫していたらしく、この旅では五松山の麓で貧しげな農家に泊まり、荀じゅんという老婆(媼おうな)の世話になっています。五松山は池州(安徽省貴池県)から四五`bほど長江を下った江岸、長江南岸の銅陵(安徽省銅陵県)の南にあった山ですが、五本の松が生えていたので李白が仮に五松山と呼んだもので、正式の山の名は不明です。詩中の「彫胡」は真菰まこもの実で、穂につく実は米に似ており、脱穀して蒸すと彫胡飯まこもめしになります。
 彫胡飯は江南の農家では貴重なご馳走でした。
 李白は貧しい農家の荀媼じゅんおうの親切心が身にしみて、幾度も礼を述べながら、ご飯を食べることができなかったと詠っています。夕食に李白の好きな酒が出ていないことも、農家の貧しさを示しています。

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