静夜思       静夜思    李 白
牀前看月光    牀前しょうぜん 月光を看
疑是地上霜    疑うらくは是れ地上の霜かと
挙頭望山月    頭こうべを挙げて山月さんげつを望み
低頭思故郷    頭を低れて故郷を思う
寝台の前に 月の光が射しこんで
霜かと思い 驚いて看る
仰げば月は おりしも山の端にあり
うなだれて 遠い故郷を想いやる

 岳州での李曄・賈至との交流のあと、李白は岳州から洞庭湖と湘水を二三五`bも南へ遡って南岳衡山へ行きます。そこからさらに西南へ一六五`bも湘水を遡って零陵(湖南省永州市)まで行きました。
 まるで豫章の妻のことは忘れたような遊歴の旅です。零陵は湖南最奥の地であり、九疑山に近いのです。
 李白はその冬を零陵で過ごし、翌乾元三年(七六〇)の春になってから洞庭湖、岳州を通り、再び江夏にもどってきました。
 乾元三年は閏四月に改元があり、上元元年となりますが、李白はこの年、六十歳になっています。洛陽の史思明軍と唐軍は一進一退をつづけ、洛陽は依然として賊軍の手中にありました。
 李白は夏の終わりまで江夏で過ごし、秋になると長江を下って尋陽に行き、廬山に隠棲して余生を「遊仙学道」で過ごそうかと考えます。「静夜思」せいやしの詩は李白の作品の中でも有名な一首で、井伏鱒二のカナ訳漢詩があります。

ネマノウチカラフト気ガツケバ
霜カトオモフイイ月アカリ
ノキバノ月ヲミルニツケ
ザイシヨノコトガ気ニカカル

 この訳詩は有名ですが、「イイ月アカリ」とか「ザイシヨノコトガ気ニカカル」といった訳が明るすぎるように思います。
 李白が故郷を想うときは、もっと暗い心境のときであったはずです。
 実はこの詩は、いつどこで作られたものか全く不明です。
 詩の起句「牀前 月光を看る」の解釈についてもいろいろな論議があります。中国の「牀」(寝台ねだい)の脚下に月光が射し込んでいるのを牀上から見た。見上げる「山月」が廬山の上に出ている月であれば、この詩のしみじみとした味わいは一層痛切に感ぜられるのではないかと考えて、この時期の尋陽での作としました。


送内尋廬山女道士李騰空 二首 其一 李 白
     内が廬山の女道士李騰空を尋ぬるを送る 二首 其の一
君尋騰空子     君は尋ぬ 騰空子とうくうし
応到碧山家     応まさに碧山へきざんの家に到るべし
水舂雲母碓     水は舂うすつく 雲母うんもの碓うす
風掃石楠花     風は掃はらう 石楠せきなんの花
若恋幽居好     若し幽居ゆうきょの好さを恋わば
相邀弄紫霞     相邀あいむかえて紫霞しかを弄ろうせん
そなたが 騰空子を尋ねてゆくなら
たぶん緑の山中の家に到るであろう
そこでは 水車の臼で雲母を搗き
風が石楠花の花を散らしている
静かで奥深い生活をしたいなら
彼女は迎えて共に霞と戯れるであろう

 せめて将来の地位の約束でもあれば、それを土産に妻を迎えに行くのが夫の務めであることを知らないような李白ではありません。
 近くの建昌県まできて県令と酒を飲んで酔っぱらっている李白の心情は、思えば哀れでもあります。結局、冬の終わりになって李白はやっと妻のもとにもどり、その年の歳末を豫章で過ごしたようです。
 翌上元二年(七六一)の春になると、李白は妻をともなって尋陽に出て、廬山の女道士じょどうし李騰空りとうくうを訪ねます。
 李騰空の屏風畳びょうぶじょうの仙居には安史の乱がはじまった翌年に妻といっしょに一時隠れ住んだことがありましたので、再訪したのです。
 妻の宗氏は李騰空の人柄に魅かれるところがあったのか、山を降りると、騰空子のもとに弟子入りしたいと言い出しました。
 李白はこの年、六十一歳になっていましたが、妻の宗氏はまだ三十代の半ばであったろうと思われます。そんな若い妻が夫と別れて道士になるというので、李白も驚いたかもしれません。
 しかし、詩によると李白は妻の仙居に同意し、激励の詩を作っています。詩中の「水は舂く 雲母の碓」は廬山が雲母の産地で、雲母は仙薬の材料として貴重なものでしたので、水車を用いた臼で搗いて粉にしているのです。


送内尋廬山女道士李騰空 二首 其二 李 白
  内が廬山の女道士李騰空を尋ぬるを送る 二首 其の二
多君相門女     多とす 君が相門しょうもんの女じょにして
学道愛神仙     道みちを学び神仙しんせんを愛するを
素手掬青靄     素手そしゅ 青靄せいあいを掬きく
羅衣曳紫烟     羅衣らい 紫烟しえんを曳く
一往屏風畳     一ひとたび屏風畳へいふうじょうに往かば
乗鸞著玉鞭     鸞らんに乗って玉鞭ぎょくべんを著けん
奇特にも 宰相の家の娘でありながら
道教を学んで 神仙を愛する
白い手で 青い靄を掬い取り
絹の衣裳には 霞がたなびく
ひとたび 屏風畳の仙居にゆけば
鸞鳥に乗って 玉の鞭を使うであろう

 内(妻)に対する其の二の詩では、「多とす 君が相門の女にして 道を学び神仙を愛するを」と、宗氏が宰相を出したような家の娘でありながら、道教を学んで神仙を愛するのは、奇特なことだと褒めています。李白は道士の資格を持っており、詩中ではしばしば神仙の世界への憧れを詠います。
 しかし、李白自身が道観(道教の寺院)に入って世を捨てる気持ちはなく、道士の資格を取ったのは官途に近づくための手段でした。
 李白は宗氏を屏風畳に送ると、ひとりで金陵に向かいます。
 金陵、つまり江寧郡は李白が夜郎に旅立った乾元元年に昇州と改められていましたので、正しくは昇州へ向かったのです。

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