自漢陽病酒帰寄王明府 李 白
               漢陽より酒に病んで帰り王明府に寄す


 去歳左遷夜郎道
   去歳きょさい左遷す 夜郎やろうの道
 琉璃硯水長枯槁   琉璃るりの硯水けんすい 長く枯槁ここう
 今年敕放巫山陽   今年こんねん敕放ちょくほうす 巫山の陽よう
 蛟龍筆翰生輝光   蛟龍こうりゅうの筆翰 輝光きこうを生ず
 聖主還聴子虚賦   聖主還た聴く 子虚しきょの賦
 相如却欲論文章   相如そうじょた欲す 文章を論ずるを
去年は 夜郎の道に流されて
琉璃の硯も干からびてしまった
今年は 大赦で巫山の麓からもどされ
蛟龍の筆も輝きを生ずる
天子はまた子虚の賦を聴こうとなさる
司馬相如としては文章を論じたいと思う

 李白は江陵に着きましたが、そこには永くとどまらず、初夏のころには江夏こうかにくだって、秋の半ばまで鄂州付近で過ごします。
 そのころ河南では、安史の乱が再び重大な局面を迎えていました。
 洛陽を敗退した安慶緒(安禄山の息子)は東方に退き、相州(河南省安陽市)に拠点をかまえ、周辺の七郡を支配する勢いになっていました。そこで唐朝は九節度使の軍を派遣して相州の城を包囲しますが、城を落とせないまま乾元二年(七五九)の春を迎えていました。
 ところが二月の末になって、唐に帰服して帰義王范陽節度使になって幽州に屯していた史思明(安禄山の親友)が再び叛し、安慶緒を援けると称して南下してきました。相州の野に相対した唐と史思明の両軍がまさに戦端を開こうとした三月三日、突如として猛烈な風が吹き起こり、両軍は陣を乱して避難します。
 そこを史思明は機敏に立ちまわって相州の城に入り、安慶緒を殺して自分が大燕国の帝位につきます。
 唐軍は相州から退き、河陽(河南省孟県)に陣地をかまえて洛陽の守りを固めますが、四月には洛陽は史思明軍の手に落ち、唐軍は陝州(河南省三門峡市)から潼関へかけての線で首都の防衛を固めます。李白が江夏に着いたのは、そうした国家の危機のときで、李白はもういちど国のために尽くしたいと推薦の伝手を求めて多くの詩を送りますが、めぼしい成果は得られませんでした。
 そのあたりの事情を語るのが詩の「聖主還た聴く 子虚の賦 相如却た欲す 文章を論ずるを」の部分で、李白は自分を司馬相如に擬し、漢陽の王県令らと大いに飲んで国家の現状を憂えたようです。

 願掃鸚鵡洲      願わくは鸚鵡洲おうむしゅうを掃はら
 与君酔百場      君と与ともに百場ひゃくじょうを酔わん
 嘯起白雲飛七沢  白雲を嘯起しょうきして七沢しちたくに飛ばし
 歌吟緑水動三湘  緑水(りょくすい)に歌吟して三湘(さんしょう)を動かさん
 莫惜連船沽美酒  惜おしむ莫なかれ 船を連ねて美酒を沽
 千金一擲買春芳  千金一擲いってきして 春芳しゅんほうを買うことを
できたら 鸚鵡洲を掃除して
君といっしょに百遍も酔い痴れたい
白雲を呼び起こして 七沢に飛ばし
水上に吟じて 三湘の水を揺すりたいものだ
君よ 惜しみなさるな 船をつらねて美酒を買い
千金を投げ出して 春の花を手にすることを

 詩題によると、李白は漢陽の王明府(県令)のところで酒を飲み過ぎて悪酔いし、江夏にもどってから詩を送ったようですが、悪酔いを謝るどころか、詩の後半六句でも意気軒高なものです。
 「鸚鵡洲」というのは江夏のすこし上流にあった長江の中洲で、島のように大きな中洲であったらしく、当時は中洲の広場で宴会なども行われています。その鸚鵡洲を払いのけて、百遍も酔おうと李白は気炎を挙げています。結句の「千金一擲して 春芳を買うことを」というのは、自分のような能力のある者を大切に扱ってもらいたいという比喩で、任官を求めるものです。

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