放後遇恩不霑   放たるるの後 恩に遇うて霑わず 李 白
天作雲与雷    天は雲と雷らいとを作おこ
霈然徳沢開    霈然はいぜんとして徳沢とくたく開く
東風日本至    東風とうふう 日本より至り
白雉越裳来    白雉はくち 越裳えつしょうより来たる
独棄長沙国    独り長沙ちょうさの国に棄て
三年未許回    三年 未いまだ回かえるを許さず
何時入宣室    何いずれの時か宣室せんしつに入り
更問洛陽才    更に洛陽らくようの才を問わん
天が雲と雷を起こして
恩沢は 雨のように降りそそぐ
東の風は日本から吹いて来たし
白雉は越裳の国から献上された
しかし 私だけは配流の地に棄て置かれ
三年になるが いまだ帰るを許されない
いつになったら都の宣室に呼びもどされ
賈誼のように 洛陽の才を問われるのだろうか

 李白はなぜ、こんなに自由な旅をゆっくりとつづけることができたのでしょうか。李白が有名な詩人であり、各地に友人知人がいたことも理由のひとつですが、実は護送する役目の役人自体が夜郎のような僻遠の地まで送っていくことを嫌っていた節があります。
 李白が途中で恩赦になれば、護送役も役目を解かれて尋陽に帰れるのです。李白は冬のころは江夏から二〇〇㌔㍍ほど上流の江陵(湖北省沙市市江陵県)にいました。二月の改元や長安での祭天の儀、十月の皇太子冊立など幾度か恩赦を期待できる機会はあったのですが、十月の太子冊立にともなう恩赦に洩れたことは李白をいたく失望させました。詩中に「三年 未だ回るを許さず」と言っているのは漢の賈誼が長沙に左遷されて三年を過ごしたことを言っており、自分を賈誼に擬して、いつになったら賈誼のように洛陽に呼びもどされて、再び天子の諮問にあずかれるのかと嘆いているのです。


 賦得白鷺鷥送宋少府入三峡 李 白
         賦して白鷺鷥を得たり宋少府の三峡に入るを送る
白鷺拳一足    白鷺はくろ 一足いっそくを拳
月明秋水寒    月つき明らかに 秋水しゅうすい寒し
人驚遠飛去    人ひと驚かして 遠く飛び去り
直向使君灘    直ただちに使君灘しくんたんへ向かう
片足で立つ白い鷺
月は明るく 秋の川の流れは冷たい
人影に驚き 白鷺は遠くへ飛び去り
まっすぐに 使君灘へ向かっていく

 この詩はいつどこで作られた作品か不明ですが、詩題に「三峡に入るを送る」とありますので、三峡の入口に近い江陵での作かもしれません。「少府」しょうふは県尉のことで、宋県尉の赴任を送る送別の宴で、「白鷺鷥」はくろしという詩題が当たって作った詩です。
 詩題が当たるというのは、当時の宴会ではいくつかの違う詩題を用意して、それを抽選のようにして宴席の人々に割り当て、当たった詩題で即席の短詩を作るのが遊びのひとつでした。
 詩中に「秋水」とありますが、漢詩では春と秋を好み、冬でも秋とする例は多かったと言われています。
 「使君灘」というのは長江の早瀬の名で、「使君」(州刺史)の乗った舟が、そこで難破したことがあったことからつけられた名だそうです。
 李白は宋少府に、人生には使君灘のような危険な個所がいくらでもあるので、注意して行きなさいと言っている詩であると思います。

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