上皇 西巡南京歌 十首 其四 李 白
                上皇 南京に西巡するの歌 十首 其の四

 誰道君王行路難
   誰か道う 君王くんおう 行路難かたしと
 六龍西幸万人歓   六龍りくりゅう 西に幸みゆきして万人歓ぶ
 地転錦江成渭水   地は錦江きんこうを転じて渭水いすいと成し
 天廻玉塁作長安   天は玉塁(ぎょくるい)(めぐ)らして長安と()
君王西巡の旅は困難と 誰が言うのか
天子の車が西方に幸すると 万人は喜んで迎える
地の神は 錦江を変じて渭水となし
天の神は 玉塁山を変じて長安とする

 宋若思の軍は漢水を遡って南から洛陽方面の賊を牽制する目的のものであったと思われます。しかし、武昌まで来たころには、李白に対する中央の非難は激しいものになり、赦免どころか徹底追求の動きとなってきました。宋若思の陣中に留まることも困難になり、李白は好意を謝して宋若思と別れ、疾と称して宿松山にこもりました。
 宿松山は尋陽の対岸、長江から北へ四`bほどのところにありますので、実態は江州刺史もしくは尋陽県令の管理下にあって、軟禁されていたと見るべきでしょう。生活は比較的自由であったらしく、ここでも李白は高官に訴えて身の証しを立てようとしています。
 李白が宿松山中で閉居していた至徳二載(七五七)九月に、粛宗の軍は長安を奪回し、敗走する敵を追って十月には洛陽も回復します。粛宗は十月二十三日に長安に帰還し、都人は歓呼の声で迎えます。十二月には上皇の玄宗も成都から長安にもどることになり、それを聞くと李白はさっそく祝賀の詩を作っています。
 「上皇西巡南京歌十首」の其の四は上皇の西巡(実際は成都への蒙塵)によって万人が喜び、成都を流れる錦江は渭水となり、成都の西北にある玉塁山は長安になったと、玄宗の成都遷座をまるで祝事のように寿いでいます。


 上皇 西巡南京歌 十首 其十 李 白
                上皇 南京に西巡するの歌 十首 其の十

 剣閣重関蜀北門
   剣閣けんかくの重関ちょうかん 蜀の北門
 上皇帰馬若雲屯   上皇の帰馬きば 雲の屯たむろするが若し
 少帝長安開紫極   少帝しょうてい 長安に紫極しきょくを開き
 双懸日月照乾坤   日月を双べ懸けて 乾坤けんこんを照らす
剣閣山は幾重にも重なる関門 蜀の北門だ
上皇帰還の騎馬は 雲のように集まっている
新帝は長安で帝位につかれ
日月が並び立って 天地を照らすであろう

 其の十の詩は連作の最後の詩ですが、玄宗の車駕は剣閣までもどってきています。まだ長安へ向かっている途中です。
 李白は玄宗の恩顧を受けていますので、玄宗が長安に帰って粛宗と共に政事を行えば、自分はきっと赦免されるに違いないと思って、この詩を書いたと思われます。
 玄宗が長安に着いたのは、十二月になってからです。
 しかし、粛宗は十月末に都にもどると、すぐに偽官ぎかんの詮議をはじめていました。偽官とは賊の官職を受けた叛逆者です。
 重罪の者十八人は十二月二十九日に斬罪に処せられています。
 李白の罪もその間に論ぜられ、処分が決まったものと思われます。李白の夜郎流謫の通知は、冬のあいだに宿松山の山居に届いたことでしょう。

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